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姜萬吉の韓国冷戦勢力批判(5)

冷戦勢力克服の道は何であるか
 冷戦勢力克服の道は、第一にかれらの成立した要件、すなわち根を除去し、第二にかれらが依存しその勢力を強化した背景を清算し、第三にかれらの生存根拠と属性を正確に抽出し消去することだといえる。冷戦勢力の根は親日勢力であったと述べた。第二次世界大戦が終了すると、わずか5年間ナチの支配をうけたフランスでは、ナチに協力したフランス人約13万人を裁判し、死刑執行約800名、終身強制労働刑2700余名など、総約5万名を処罰した。日本帝国主義の侵略を15年間うけた中国蒋介石政府は、日本帝国主義が敗戦した1945年から1947年までの2年の間に、親日反民族勢力、すなわち漢奸3万8000余名を起訴し、死刑を含む1万5000余名を処罰した。
 しかし周知のように35年間日本帝国主義の侵略をうけたわたしたちの民族社会の場合、米軍政は言うまでもなく、李承晩政権も「反民族行為処罰法」をつくりはしたが親日派に対する処罰をうやむやにした。この状況から半世紀を経ることで直接親日行為をした者は大部分死亡し、一部生存しているとは言っても処罰の必要がないほど廃物となった。冷戦勢力を克服するための根である親日勢力を克服する必要性が高いといっても遡及法を制定するのは難しく、仮に制定するとしても親日行為をした当事者はすでに大部分死亡し、その後継たちがたとえ現在の冷戦勢力を構成する重要な部分であるとしても連座法を適用することはもちろんできない。
 しかし冷戦時代を超え新しい世紀を迎えて民族問題を和解と協商を通じて平和的に解決しようとするとき、親日後継勢力が冷戦勢力となってそれを阻害する反歴史的要素になっているのであれば問題は深刻である他ない。冷戦勢力の根である親日勢力をいま実定法で罰し得ないとしても、歴史的清算を徹底的にすることが冷戦勢力克服の重要な方法のうちの一つであることは強調せざるをえない。とくにこの先、親日勢力の粛清を比較的徹底して行った北側と平和統一をする過程において、親日勢力に対する歴史的清算は必須的要件となるだろう。
 次に、過去において親日勢力と冷戦勢力が棲みついてきた温床は独裁政権であった。したがって冷戦勢力を克服する道は独裁政権の残滓を徹底的に清算して民主主義を積極的に発展させる道であるといえる。1990年代に至って金泳三政府、金大中政府などが登場することで、政治的民主主義はある程度進展したといえる。しかし金泳三政府は盧泰愚軍事政府と三党統合を通じた野合によって成立し、金大中政府は金鐘泌旧軍事政府勢力との連合によってのみ成立しえたのである。
 解放後はじめて与・野間の政権交代が成立したとはいえ、金大中政府は民主勢力単独で成立しえず、それゆえいまなお冷戦勢力の相当部分が保守勢力という名の下に権勢をふるい気勢をあげている。金大中政府が民主勢力のみで成立できなかったことはその責任が国民にあり、今後金大中政府以降の政府を徹底して民主勢力のみで成立させることが、冷戦勢力を克服する重要な当面の課題のうちの一つであるといえる。
 民主勢力のみで成立しえなかった金大中政府の下では政治的民主主義も期待通りには進展しえなかった上に、経済改革と呼ばれる経済的民主主義も大きな難関にぶつかった。30年のあいだ軍事独裁政権時代を通じて形成された非民主的経済構造と独裁軍部と癒着した経済勢力が適切に除去されない限り冷戦勢力の克服は困難である。事実、親日勢力やその変形としての冷戦勢力は政治勢力としてのみ存在しているのではなく経済勢力にもその重要な部分を占めている。経済的民主主義の発達は冷戦勢力の温床自体を除去する重要な道の一つである。
 先にも述べたが、冷戦勢力は言うまでもなく統一問題が平和的に推進されることを嫌悪し、南北の間での冷戦体制がつづくことを願うのである。したがって南北のあいだの平和統一政策を積極的に推進することこそが、冷戦勢力を克服あるいは解体する近道である。過去、冷戦勢力は6・25戦争以降たとえ戦争統一を表では主張しなかったとしても、北側でまったく受容し得ない国連監視下での南北韓総選挙案やあるいは北韓だけでの総選挙案を主張しながら冷戦体制を維持してきた。要するに正しい意味での平和統一案を拒否したのである。
 そのうちドイツで西ドイツによる東ドイツの吸収統一がなされるや、韓半島の冷戦勢力たちもかれら中心の吸収統一を強力に希望した。金泳三政権の南北頂上会談の合意が吸収統一路線の一時的政略からでたものでないなら、一方の首脳が死亡したとき、その後継権力との会談の企図のためにも、弔問騒動のようなことは生じなかっただろう。しかしたとえ首脳会談に合意したとはいえ、それは冷戦勢力の一時的政略であって正しい意味での和解統一・協商統一・平和統一政策からでたものではなかったために、一方の首脳が死亡するや否や弔問騒動がおこりただちに冷戦体制を維持する方にむかったのである。
 後日のことだが、その後継である金大中大統領が平壌で第1回南北首脳会談を成功させ、第2回首脳会談のため金正日委員長がソウルに来るとなるや、過去の在任中首脳会談に合意したことのある金泳三前大統領が、金正日委員長のソウル訪問に反対する国民運動を展開すると述べた事実からも、その在任中の首脳会談の合意が和解・協商・対等・平和統一政策からでたのではなく、冷戦勢力の一時的政略に過ぎなかったことが十分証明される。
 前に述べたように、金大中政府は平和統一勢力のみで成立した政権ではなく、冷戦勢力・反北勢力の一部と連合して成立せざるをえなかったために、政権成立後しばらくのあいだは積極的和解政策が実施されるのは困難であった。そうでありながら正しい意味での平和統一のための包容政策、すなわちわたしたちの言うところの積極的和解政策がねばり強く続けられたことで最初の南北首脳会談が成功し6・15共同宣言がなされたのであり、それが冷戦勢力に対して大きな危機意識を与えたのである。しかし対北和解政策及び協力政策の進展に脅威をいだき身震いする冷戦勢力を克服する道は、和解政策・協力政策をひきつづき積極的に展開してゆくことだといえる。そして前にも述べたように、金大中政府以降においては、民主勢力・平和統一勢力のみの新政府を成立させることが重要である。
 要するに現在の時点における冷戦勢力克服の道は、まず冷戦勢力の根と言える親日勢力に対する歴史的清算を徹底することが重要である。とくに南北のあいだで和解・平和統一政策が推進されている時点において、相対的に親日派の粛清が不徹底であった南側の場合、北側との均整を維持するためにも親日派に対する徹底的な歴史的粛清が要求されている。
 解放後、親日勢力が政治・経済・文化界などにそのまま生き残りえたもっとも重要な原因は、李承晩独裁体制と朴正煕政権をはじめとした軍事独裁政権の継続であったと先に述べた。李承晩政権と軍事政権を含めて40年を超える独裁期間は解放後わたしたちの歴史の大部分を占め、その期間を通じて政治・経済・社会・文化などに至るわたしたちの歴史全体が歪曲され、それがただちに冷戦勢力が棲む温床となった。独裁体制の根を除去し冷戦勢力の棲みかを除去するために、政治・経済・社会・文化的民主主義を確立してゆくことはただちに冷戦勢力を克服してゆく道となるのである。
 親日勢力から冷戦勢力へと至る一連の勢力たちは必然的に反北勢力となるのであり、したがって北側との間で冷戦気流が継続することにおいてのみその生存空間が維持されるのである。かれらが南側中心の武力統一や吸収統一を念願するのもそのためであり、武力統一や吸収統一の可能性が希薄化し南北協商統一・和解統一・対等統一の展望や可能性が高じるほどに焦燥に駆られるのもそのためである。したがって冷戦勢力を克服する道は平和統一・協商統一・和解統一の道をひきつづき広げてゆく道であると言う他ない。

姜萬吉の韓国冷戦勢力批判(4)

冷戦勢力の歴史的属性は何であるか
 冷戦勢力を克服し清算するためには、かれらがもつ歴史的属性を正確に理解する必要がある。第一にかれらは民主主義の発展を喜ばないと言う点で際立っている。日帝強占時代を通じて政治・経済・社会・文化的民主主義の発展が極度に制約されたわたしたちの民族社会は、民族解放こそが民主主義の発展において革命的契機となるべきだったのであり、そのようになっていれば社会の各部門における親日勢力も革命的に粛清され残存しえなかったであろう。
 歴史的に、現実的に、清算されるべき勢力が清算されずに政治・経済・社会・文化的現場にそのまま残存するためには、その政治体制が民主体制となってはならず独裁体制が適合するものである。李承晩独裁体制や朴正煕独裁体制が、清算されて然るべき親日勢力とその再版としての冷戦勢力の隠れ家ないし保護所となったのはあまりにも当然のことであった。だからこそ親日勢力・冷戦勢力の属性は民主主義の発展、ひいては歴史の発展自体を嫌悪するのである。
 世界史的に20世紀の帝国主義時代及び東西冷戦体制が清算され平和主義時代・文化主義時代が展望される21世紀には、韓半島においても政治・経済・社会・文化的民主主義が一層前進し南北が和解することで平和統一を志向してゆく道が歴史の正しい方向であることは間違いない。しかし独裁体制を主導あるいはその陰に棲んでいた冷戦勢力としては、民主主義が発達して南北が和解することで平和統一へと向かう場合、棹差す空間が消滅することは自明である。とくに民主主義の発達と平和統一への志向の強度が高じるほど、かれらに対する打撃は致命的なのであり、だからこそ冷戦勢力としてはあらゆる手段を動員して南北和解と平和統一論を阻止するのである。しかし旧時代は過ぎ新時代がくるのであり、歴史とは発展するものである。
 自分の立場を正当化するために極めつけの反民族勢力でありながら民族主義勢力の仮面をかぶり、民族の他方を敵視するのが冷戦勢力の第二の属性である。日帝強占時代の親日勢力を母体とする冷戦勢力が解放後も生き残るためには日帝時代を通じてかれらと敵対関係にあった、左であれ右であれ民族解放運動勢力と、ひきつづき敵対する以外になかったとは先に述べた。
 親日勢力を母体とする冷戦勢力が解放後も粛清されずに政治・経済・社会的位置を維持するためには、かれらが生き残り続けたことの正当性を前面に押し出す必要があった。それゆえ、過去の自身の反民族的行跡を隠蔽するためにも、自身の路線、すなわち反共主義及び反北主義路線を民主主義路線であるとでっちあげる以外なかった。そして親日勢力が民族勢力へと転身するためには過去の民族解放運動路線を否認あるいは黙殺するか、さらには反民族的路線としてでっちあげる以外なかった。その際、反共主義を強調し、日帝時代の民族解放運動勢力を左右の別なく、共産主義勢力および容共勢力として追い込んでいくことがきわめて効果的であった。
 南韓単独政府樹立に参加しなかった臨時政府勢力については、共産主義者あるいは容共主義者として追い込んで粛清したが、民族解放運動戦線から解放後の時代にまでいたる社会主義勢力に対しては、積極的に敵対せざるをえず、またそうしてこそ現実的に自己勢力の正当性が成立すると考えたのである。この場合反単独政府勢力、すなわち南韓単独政府樹立反対勢力の全体に対しては、左右の別なく、民族の一部という意識よりも敵対意識がより先立たざるを得ず、かれらと妥協して共に生きるという考えよりも、討って滅する対象とみる考えが先行せざるを得なかったといえる。
 冷戦時代や軍事独裁時代には、かかる冷戦意識が別に問題となることはなかった。6・25戦争の際と同様に、北は民族の一部である前に敵であり、米国は他国ではなく血盟の友邦であったためである。しかし帝国主義時代と冷戦時代へと継承された20世紀が過ぎ去ることで、世界史的に冷戦体制が解消され、民族史的にも南北和解の時代が到来している。民族のもう一方を同族として考えることができず敵としてのみ考えた冷戦勢力は選択の岐路にあるようだ。敵としてのみみてきた民族の一方を今からでも同族とみて和解し協力してゆく対象とするのか、あるいは時代の変化と民族問題の進展に共に参与することができず冷戦勢力としてそのまま生き残り続けるか、選択はかれら次第である。
 政治・経済・社会的位置を維持するために外勢と容易に結託することを冷戦勢力の第三の属性としてあげることができる。過去半世紀のあいだ南韓の冷戦勢力が依存したのは「血盟の友邦」米国であり、とくに駐韓米軍はかれらの頼もしい背景だった。したがって駐韓米軍撤収論を、かれらは亡国的・反国家的・反民族的論議であると罵倒してやまなかった。南側の国力が北側の何十倍となっても、南側軍隊の武器の性能が北側よりもどんなに優秀であっても、かれらは常に北側の南側に対する攻撃の危険性を強調し誇張しながら、米軍撤収がただちに戦争につながるかのように言ってきた。
 しかし世界史において東西冷戦時代が過ぎ、韓半島において南北和解時代が近づいてくることで、駐韓米軍無用論がゆっくりとではあれ台頭しはじめている。米軍が撤収して東アジア地域が平和になるか、東アジア地域が平和になって米軍が撤収するかという論議は、鶏が先か卵が先か式の論難と同じものであるともいえる。しかし全人類社会が、21世紀が20世紀よりも平和的な世紀になることを希望している以上、圏外の軍事力である米軍が東アジア圏に駐屯せねばならない理由は弱化するだろう。この点においても、冷戦勢力が今後その立場と去就をみずから選択せざるを得ない重要な理由がある。
 冷戦勢力の第四の属性は平和統一自体を嫌悪するという点だといえるだろう。分断時代半世紀を通じて冷戦勢力が追求してきた統一は北進統一・滅共統一であり、それが不可能になって最後に追求した方法がドイツ式吸収統一であったといえる。したがって南北協商統一や対等統一はまったくかれらの思考の外であった。解放後北側からきた越南民たちが北に置き去った土地を再び獲得するため土地文書を大切に保管しているという話がきこえてくることからも、このことは斟酌しうる。
 しかし、その地政学的位置が重要な原因の一つであると考えられているが、韓半島においては6・25戦争によって実証されたように、北進統一のような戦争統一は不可能だったのであり、金日成主席死亡後ただちに生じると論じられまた期待されていた吸収統一も、不可能であることが実証されつつある。結局、協商統一の方法以外残っていないといえるが、冷戦勢力・反北勢力がそのまま維持されるためには、南北が統一されずに引き続き対立状態を維持するかあるいは戦争統一や、最低限、吸収統一でも成されねばならないために、両者いずれでもない平和統一を嫌悪する以外ないのである。20世紀を超えて世界史的、民族史的趨勢は平和統一・和解統一・協商統一の方に向かっているので、冷戦勢力が生き残ってゆく道は徐々に狭くなり、危機をおぼえるほどに生存のための身震いはより深化するのである。

 

姜萬吉の韓国冷戦勢力批判(3)

冷戦勢力はどのように強化されてきたか
 米軍政と李承晩政権の下での冷戦勢力は、当初38度線以南に存在した日帝強占時代の親日勢力を中心に形成された。しかし以降も冷戦勢力が増加し強化される諸要因があった。38度線以北においてはソ連軍占領初期から以南とは比較できないほど侵略者日本人たちに対する処遇が過酷であり、民族解放運動戦線の社会主義勢力が政権をとったあとには、いまや民族内部の親日派と地主を含めた資産階級などを弾圧しはじめ、宗教的自由も制限していった。そのため親日派と地主を含めた資産階級とキリスト教信者などを中心とする多くの人口が38度線以南へと越南した。
 かれら越南人たちがつくった組織のうちとくに著名なのが西北青年会であり、その要員たちは南側の反共団体と連合して強力な反北・反共勢力となった。西北青年会のような越南した反共・反北勢力が加勢することで、南韓における反共・反北主義勢力は急速に強化されてゆき、かれらは社会主義勢力と統一民族国家建設勢力、すなわち単独政府反体制勢力を弾圧する前衛隊として活動した。その徹底的な反共・反北活動過程はそのまま、北から脱出したり追い出されたかれらが南韓においてその居場所を確立してゆく過程であったため、南北の間の反目は深化し冷戦体制も強化されていった。
 しかし1950年代に6・25戦争が勃発する前までは、このように冷戦勢力が強化される渦中においても、平和統一を志向する勢力がある程度のこっていた。その具体的証拠としては、6・25戦争直前である1950年5月に実施された第2代民議員選挙において、中道派とよばれた単独政府反対勢力が相当数議会に進出し李承晩支持勢力が少数に転落した事実をあげることができる。
 しかしただちに6・25戦争が勃発することで、いまや南韓において中道派勢力、平和統一勢力は全滅の如き状態となり、若干残存したとしてもすべて活動を中止して潜伏し、冷戦体制が急速に強化された。もはや南韓の場合、北進統一勢力と冷戦勢力(このときは事実上熱戦勢力だったが)だけが残った状況となった。戦争がおわることで再び平和統一勢力が台頭しはじめそれが進歩党結成として現れたが、極度の冷戦体制の前でその勢力は犠牲となるほかなかった。
 [1960年に]4・19運動が爆発することで潜伏していた従前の平和統一勢力及び4・19の主体勢力としての新しい平和統一勢力が急浮上したが、[1961年]5・16軍事クーデターによってすべて弾圧された。5・16クーデーター勢力は平和統一論を「間接侵略論」であると断定し、「4・19空間」を通して表面に出てきたすべての平和統一勢力を粛清しながら冷戦体制をふたたび強化していった。「4・19空間」において4・19の主体たちは大体において外勢介入を排して南北の直接会談による平和統一を主張した。4・19主体のこのような平和統一論は大まかにみて三つの勢力にとって大きな脅威とならざるをえなかった。
 そのひとつは南韓の軍部勢力である。7年前まで北側の軍隊と銃を交えて戦闘し、なおも北側軍隊が主敵である南韓軍部は平和統一論の前ではその存在理由を喪失するような状況だった。さらに当時は現在とことなり平和統一論が一般化していなかった。それだけでなく平和統一論の主唱者たちは政府当局者ではなく、李承晩政権をたおしたものの後継政権をとれなかった4・19主体勢力であった。 
 平和統一論に脅威を感じたもう一つの勢力は言うまでもなく冷戦体制、すなわち対北対決体制が維持されてようやくその存在理由が明確になりうる親日勢力を根とする冷戦勢力であった。5・16軍事クーデターの首謀者である朴正煕は日本帝国主義の傀儡満州国将校出身であったので、4・19空間で爆発した平和統一論に危機意識をもった二つの勢力を一つに糾合した象徴的存在だといえる。
 4・19主体勢力の平和統一論に危機意識をもったもう一つの勢力は米国であった。韓半島の平和統一は米軍の韓半島駐屯理由を消滅させる。米軍が5・16軍事クーデターを直接指示し援助したことを示す資料はまだ発見されていないとはいえ、少なくともそれを黙認・幇助した資料はすでに一部公開された。
 5・16軍事クーデター以降軍事独裁政権が30年間継続することによって冷戦勢力は大きく拡大した。南側の冷戦勢力は1960年代まで韓半島統一方案として国連監視下の南北総選挙案を言い張ってきたが、北側が応じない限りそれは正しい意味での統一案になりえなかった。第三世界の大量進出によって国連が米国の手にあまるようになり米・ソ和解、米・中和解が形成された条件において、平和統一論・主体[的]統一論・民族和解統一論としての[1972年]7・4共同声明が発表されたが、それは何ら実効性が無く、軍事政権を中心とする冷戦勢力の拡大、専横と横暴は依然として続いていた。事実、南北対決の構図及び冷戦の構図の下でのみその存在理由が際立つ属性をもった軍部中心政権としては、正しい意味での平和・主体・和解統一を形成するのは困難であった。
 世界史的に冷戦体制が崩壊し韓半島の南側でも軍部政権後、金泳三文民政権が成立し、南北頂上会談の約束もされた。しかし一方の首脳の死亡と軍事政権の胎内から出奔した文民政権の限界性などが原因となり、冷戦体制がそのまま持続した。そうして解放以来選挙による最初の政権交代によって金大中政府が成立することではじめて南北頂上会談がなしとげられ、平和統一体制を定着させるための南北共同宣言が発表されその後続措置がつづいた。このため冷戦勢力の危機意識がふたたび高じたのである。
 親日派が根である冷戦勢力が最初にぶつかった「解放空間」の危機は米軍政と李承晩政権の成立つづく6・25戦争によって解消され、4・19後の危機は5・16軍事クーデターで解消されただけでなくむしろ冷戦勢力が大きく強化された。世界史的に冷戦体制が解消し、選挙による最初の政権交代によって民主政権が成立し、南北頂上会談において共同宣言が発表され、その合意事項が着々と現実化してゆくことで、再びぶつかることになった冷戦勢力の危機はどうなるか。再び抜け出るのかあるいは冷戦勢力自体が解体されるのか。歴史は平面上を循環するものではない。循環するとしても螺旋形を上昇しながら循環するのである。

姜萬吉の韓国冷戦勢力批判(2)

親日勢力がなぜ冷戦勢力となったか
 冷戦勢力の根が解放後においても米軍政の影の下粛清されなかった親日派であることを知ったなら、次には親日勢力がなぜ冷戦勢力へと転換したのかを知らねばならない。南北統一民族国家の建設に失敗し、38度線以南において右翼が政権を掌握する単独政府が樹立される他なかったとしても、親日派が多くひそんでいた李承晩と韓民党の勢力が必ず政権をとらねばならなかったのではないし、金九・金奎植など民族解放運動戦線の右翼勢力が政権をとる可能性がなかったのでもない。
 そうであれば親日派が政治勢力化して解放後の政局に影響をあたえあまつさえ政局を掌握しうる、そんな時宜では全くなかったといえる。しかし金九・金奎植などを中心とする[解放前からの大韓民国]臨時政府勢力は、統一民族国家の建設を目標として平壌での南北協商に行ったあと、南韓のみでの単独政府樹立に参加しなかった。臨時政府勢力を中心とする民族解放運動戦線の右翼勢力が南韓単独政府樹立に参加しないことによって、南韓単独政府の政権は李承晩と韓民党勢力にゆだねられる以外なかった。
 いかなる民族社会の別なく解放後最初に成立する政権は、大体において民族解放運動勢力を中心に成立するものであり、その場合当該政権は歴史的正当性及び正統性を有することになる。しかし南韓単独政権として成立した李承晩政権はその点において正統性が弱かった。反対に北に成立した政権は、東北抗日連軍において日本軍と直接たたかい、民族解放運動団体である祖国光復会を成立させた勢力と、朝鮮義勇軍を結成しやはり日本軍と戦闘し、華北朝鮮独立同盟を結成して祖国解放に備えた勢力たちが連合してたてた政権だった。
 李承晩政権は歴史的正統性を樹立するため、みずから大韓民国臨時政府の正統性をうけつぐと称したが、臨時政府主席金九は分断国家政権の場合、いかなる政権も臨時政府の正統性を継承し得ないという事実をあきらかにした。政権の実質的基盤の大部分を親日勢力におくことによって、南側の政権に参加しなかった臨時政府勢力よりも、また北側に成立した政権よりも、その正統性の問題において脆弱性を免れなかった李承晩政権は、その弱点をうめるため反共主義を強固にかかげる他なかった。相対的に正統性において前を行く北側の政権に対抗するため反共主義を強化し、南側においても、正統性で前を行く臨時政府与党である韓国独立党勢力を、やはり自らの政権の弱点を隠蔽するため、共産主義者として追い込んだ。
 日帝強占時代の警察は、民族解放運動の左翼戦線を弾圧するため「治安維持法」などをもうけて強力な反共主義を展開し、日帝時代の朝鮮人警察官及び憲兵たちを例にあげるなら、民族解放運動の右翼戦線よりも左翼戦線を相対的により過酷に弾圧する下手人となった。先にも述べたが、解放後各地方に成立した人民委員会は、事実、非妥協的右翼と左翼が結合した反日統一戦線体であった。しかし米軍政の成立とともにその地位をそのまま維持することになった日帝時代の行政官僚や警察要員たちが、人民委員会全体を左翼集団として追い込み、弾圧し、李承晩政権成立後においても、かれらがそのまま、政権の歴史的正統性の脆弱さを糊塗するために展開された強力な反共政策の推進勢力となったのである。
 米軍政と李承晩政権の下でその座を維持することになった親日勢力としては、日帝時代以来かれらの弾圧対象であった民族解放運動勢力を、解放後においても以前のように弾圧することだけがみずからの政治的位置をそのまま維持し得る道であった。親日勢力が李承晩政権の下で過去においてかれらの敵であった民族解放運動勢力を弾圧しうる名分は、かれらをすべて左翼勢力や容共勢力として追い込む道であった。
 日帝時代の警察要員がそのまま温存された李承晩政権の下では、民族解放運動勢力は左右の別なく一旦左翼勢力として追い込まれさえすれば必然的に弾圧対象となった。民族解放運動戦線の右翼中の右翼であるといえる金九も南北協商に行ってきたあとには、李承晩政権が「南北協商を主張し共産分子との合作を口実にしてソ連支持を示し米国政府に百方手をつくして反対した」とし、「麗順軍乱」は「共産主義者が極右政客たちと結託しておこした」と発表し、その末ついに金九は暗殺されたのである。
 臨時政府勢力と連合できないことによって、地主勢力中心の韓民党と親日勢力を基盤とする以外なかった李承晩政権は、その歴史的正統性において臨時政府勢力や北側の政権に比べ相対的に脆弱であり、その欠落を埋めるため反共政策を押し出す以外なかった。そして李承晩政権の重要な構成要素となった親日勢力は、日帝強占時代を通じてかれらの弾圧対象であった民族解放運動勢力を解放後にも続けて弾圧し、政権の正統性の脆弱さを葬り去るために強力な反共政策を展開した。
 一方世界情勢の面でも、第二次世界大戦以後ヨーロッパとアジアなどで急激に拡散してゆく社会主義圏を封鎖するため、米国と英国などの資本主義諸国が冷戦体制を強化していった。このような民族史内外の経緯によって、韓半島の南側では解放前の親日勢力が解放後の冷戦勢力へと転換していったのである。

 

姜萬吉の韓国冷戦勢力批判(1)

 以下(元論文の)小題目ごとに(5回に)分けて、姜萬吉「冷戦勢力の正体とその克服の道」( 同『増補版 統一運動時代の歴史認識』(2008)所収)の翻訳をおこなう。文中[ ]は訳者による補足。

冷戦勢力の根は何か
 わたしたちの現実から[出発して]冷戦勢力を克服するためには、まず冷戦勢力がわたしたちの歴史にその位置を占めるようになった条件を知り、それを解消してゆくことが重要だ。日帝強制支配から解放後38度線がひかれることによって民族分断の危険が高じたとき、分断の危険を克服して統一国家を建設しようとした政治勢力は存在した。統一国家が樹立された場合権力を獲得する可能性が無いことを知って、分断国家樹立を画策する政治勢力も存在した。38度線以南の場合、分断国家樹立を画策する勢力のうちに、日帝強占時代に民族解放運動に従事した勢力も一部あったことは事実であるが、そうでない勢力が大部分であった。とくに日帝の強占支配に加担して、その行政官・警察官・司法官・職業軍人などとして従事した勢力、すなわち親日勢力がほとんどそのまま分断国家の統治勢力としてその座を占めたのである。
 これらの親日勢力が、なぜ冷戦勢力となったかという問題を論じる前に、親日勢力がどのように形成され何を行ったのか知る必要がある。日帝時代の親日勢力は大きくみて三段階にわたって形成され拡大した。第一段階に形成された親日派は、韓日併合当時それに賛成し加担した朝鮮王朝の王族たちと高級官僚であって、日帝当局から貴族待遇を得た者たちが大部分である。8・15当時その当事者たちは大体死亡しているか高齢であったが、その後孫たちは、一世親日派たちが[日帝に]加担することで形成した政治的・経済的基盤を土台として、解放後もそのまま政治・経済・社会的地位を維持することができた。38度線以南の場合、そのうちの多くの人々が米軍政によって再登用され、李承晩政権成立後も、国務総理や将官、大法院長・軍参謀長・銀行総裁などになって、支配層の位置を維持することができた。
 日帝時代に親日派が拡散した第二段階は、3・1運動後の文化政治とよばれた民族分断政策のときであった。3・1運動が爆発したとき朝鮮総督府は李完用のような「合邦」時の親日派を動員して万歳示威を行う群衆を懐柔あるいは脅迫したが効果がなかったので、新知識人・儒生・資産階級・地主・宗教家などを広範に包摂した。かなり制限されたものではあったがいわゆる地方自治制の実施も、親日派を拡大する方法のひとつとなった。
 朝鮮総督府のかかる民族分裂政策のために3・1運動後、民族主義勢力の一部が妥協主義路線へと向かい、民族解放運動戦線が大きな打撃を受けることになった。韓日「合邦」時に形成された親日派が朝鮮王朝の王族、大臣及び高級官僚に限定され、一つの勢力というほどその数が多かったわけではないとするなら、3・1運動後の民族分裂政策の結果各界各層に形成された親日派は、勢力と言い得るほど拡散したといえる。
 日帝時代親日派が拡大再生産された第三段階は、中日戦争以降といえる。本格的な大陸侵略に至った日本帝国主義は、いまや当時の朝鮮人たちに戦争協力を要求せずにはいられなくなり、一般知識人・中小企業人・中小地主などにまで積極的に親日勢力を拡大していった。とくに教育者、行政官僚及び警察官僚などに朝鮮人を拡大採用し、日本軍及び傀儡満州軍将校などにおいても朝鮮人の数を増加させた。この時期には朝鮮人を大量に侵略戦争に動員するための宣伝を行う文人・教育者など、「職業的」な親日派の数も大きく増加した。日帝時代に生まれ日帝の教育以外受けることのできなかった学徒兵たちが、身命を賭して民族解放運動戦線へと脱出する一方で、親日派たちはかれらを侵略戦争へと送り込むための学徒兵勧誘演説を行ったのである。
 民族解放戦線は左右の別なく民族解放を革命と規定し、親日派の粛清をもっとも重要な政綱政策の一つとして定めていた。左右の別なく分断されながら解放されるとは夢にも思わず、したがって民族国家再建過程において過去の親日勢力が一つの政治勢力として再登場することになるとは、まったく予想し得なかった。たとえ連合国によって日本軍の降伏をうける境界線としての38度線がひかれた後であっても、日帝時代の民族解放運動戦線においてそうであったように、また1940年代前半の臨時政府がそうであったように、非妥協的右翼と左翼が民族統一戦線を形成し、統一民族国家を樹立する道はあったのである。
 しかし反日民族統一線戦体である人民委員会が各地方に成立させた行政権が米軍当局によって回収され米軍政が実施されることで、解放後一時は逃亡していたかつての親日行政官僚・警察官僚たちが行政の一線に復帰し、ここに親日勢力の政治勢力化が開始されたといえる。左右の別なく民族解放運動勢力が解放後の治安を担当あるいは国家建設を主導しえていたならば、必ず粛清対象となっていたはずの親日勢力が米軍政の成立によってそのまま政治界・経済界を掌握し、かれらがまったくの無傷で冷戦勢力へと転化したのである。

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