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金明秀「人権教育の問題点」について


 金明秀氏は「人権教育の問題点」において、「人権教育を《やるべきかどうか》という次元では、答えは明らかで、やるべきなのです。ただし、《どうやったらいいのか》という次元については、難しいところがあります。少なくとも、現行の人権教育のやり方には、明らかに間違っているところがある」と述べたうえで、次のように述べている(番号は引用者)。
 

 ①小中学校の人権教育では、「差別をするのは悪い人」だと教える傾向があります。「差別をする悪い心があるから、差別が起こる。だから差別をなくすためには心の中の悪い部分をなくしましょう。一人ひとりが心の中から差別をなくしていけば、いつか社会から差別はなくなるのです」という教え方をします。
 ②でも、差別をするのはみんな悪い人でしょうか? 悪い人でなければ差別をしないといえるでしょうか? ぼくは、現実の差別事象というものはそんなに単純なものではないと思いますけどね。


 ①は二つの文からなっていて、それぞれ「小中学校の人権教育」における「教える傾向」と「教え方」を述べたものだが、最初の文の「差別をするのは悪い人」は価値判断であり、二番目の文は主に因果関係(「差別をする悪い心があるから、差別が起こる」)について述べている。②は、三つの文からなっているが、最初の文の「差別をするのはみんな悪い人でしょうか」は≪差別をするのは(みんな)悪い人である≫の変形、二番目の文の「悪い人でなければ差別をしない」は≪悪い人であれば差別をする≫の変形として理解できる。
 ≪差別をする人は悪い人(である)≫と≪悪い人は差別をする(人である)≫は等しくないのだが、①と②からなる引用文全体(結局記事全体)は、両者の差異を問わないとき全体として最もスムーズに読める。≪XはYである≫と≪YはXである≫は、常に混同されているわけでもないし、差異が明確に認識されているわけでもない。≪差別をする人は悪い人(である)≫と≪悪い人は差別をする(人である)≫の差異に対する無感覚が、特定の局面や特定のマジョリティーの意識の中で、常態となっているのであれば、なぜそのような倒錯が常態となっているか、いかなる歴史的社会的条件がそれを支持しているか、反差別運動の停滞が発生しているか否か等、それ自体分析に値すると思われる。
 人権教育の現場で「差別をするのは悪い人」だと教えると、多くの場合、≪差別をする人は悪い人、悪い人は差別をする(人)≫≪差別をする心は悪い心、悪い心は差別をする(心)≫等々の短絡が形成され、その結果、子どもたちが(差別に対する)価値判断と(なぜ差別が発生するかという)因果関係を区別して理解することに失敗しやすいことを示す実証研究があるのだろうか(あるいは多くの教師がそのような短絡を子どもたちに教えているという調査結果等)。仮にそのような研究があるとしても、短絡の形成を回避しつつ(差別に対する)価値判断と(差別発生の)仕組みをより正確に区別して教授する方法を考えるのが先だと思われる。



 丁度「きれいはきたない、きたないはきれい」のように、≪差別をする人は悪い人(である)≫と≪悪い人は差別をする(人である)≫の差異の無化について考えている。人によっては、「人間が歴史的に獲得してゆく様々な倫理が道徳規範として社会に沈澱してゆくということは、そもそもそういうことなんだから、お前の指摘はただの言葉の問題にすぎない」と考えるかもしれない。だがそうだろうか。丸山真男の「「である」ことと「する」こと」(同『日本の思想』所収)を想起されたい。私は≪差別「する」人は悪い人「である」≫と≪悪い人「である」人は差別「する」≫の差異を指摘している。ただし丸山は「具体的状況での具体的な行動を見ないと、よい人とか悪い人とかは単純にいえなくなります。というより、よい人、悪い人という基準に代って、よい行動と悪い行動という基準がますます重要になってくるといった方がいいでしょう」(167頁)【註1】と述べており、私も行為を問題にすべきだと考えるので、≪差別をする人は悪い人(である)≫よりも≪差別は悪い行いである≫の方が適切であり、そうすれば≪悪い人は差別をする(人である)≫との差異も一層明確になると考える。私が拘っているのは、価値判断と「悪人からは悪事が流れ出す」(166頁)的な認識との違いである。≪差別「する」人は悪い人「である」≫は特定の行為をした人に対する価値判断であり、≪悪い人「である」人は差別「する」≫は「悪人からは悪事が流れ出す」的な、一種の因果関係(の表現)と地続きになった認識である。両者は等しくないから、≪悪い人「である」人は差別「する」≫(の弊害)を批判し解体する際に、≪差別「する」人は悪い人「である」≫という価値判断(及びその伝達)をいっしょに控える理由はない。逆に言えば、控えようとする意識の中では両者の違いが問われていない(あるいは被伝達者がその違いを認識できないと考えている)。(念のため)付言すると、丸山は「である」=悪、「する」=善であり、すべてを行為(する)の連鎖で機能主義的に説明すべき、と述べているのではない。丸山は「「である」価値と「する」価値の倒錯」(179頁)を問題にしている。「前者(である)の否定しがたい意味をもつ部面に後者(する)がまん延し、後者(する)によって批判されるべきところに前者(である)が居座っているという倒錯を再転倒する道」(179頁)【註2】は差別論にも適用すべきだろう。問題は今なお日本的道徳へと反差別運動が回収されないよう闘争することでもある。



 金明秀氏は、「道徳教育のために差別を利用している」事象と「似た構図」の問題があるとして、次のように述べている(文中スラッシュは引用者)。

 似た構図に、反戦教育のためにアジアや在日が利用されるというのもあります。「日本はかつてこんなにひどいことをしました。アジアの人はみんな怒っています。われわれは、申し訳ないと思わなければいけない。だから、日本はふたたび戦争に踏み出すことはできない。軍事国家化すれば、アジアの人がどんなに怒るか考えてみよ」という教え方です。アジアを利用せずとも反戦教育は単純にできるはず。ところが、「そんなことをしたら、隣のおじちゃんに怒られるよ」と言わんばかりに、「アジアに怒られちゃうよ」という形で、反戦教育を進めていくのです。/それがどのような弊害を生むかといえば、「そんなに、反日、反日いうのだったら、日本から出て行ってください」という暴論を引き出してしまうのです。つまり、「確かに日本は悪いことをしたし申し訳ないと思います。でもそんなに日本が嫌いだったら出て行ったらいかがですか」という、ある意味で素朴な声を生んでしまう。


 ≪反戦教育のためにアジアや在日を利用するから、暴論を引き出す/素朴な声を生んでしまう≫は因果関係であり、もし「軍事国家化すれば、アジアの人がどんなに怒るか考えてみよ」は、本来(被害をうけた他者への想像力を通じて加害者側の)当事者性を喚起する言葉だと私は考える。「そんなに、反日、反日いうのだったら、日本から出て行ってください」という言葉が、議論を無視した文字通りの「暴論」であれば、因果関係は成立しえないから、単に「暴論」を批判するしかないだろう。同様に「確かに日本は悪いことをしたし申し訳ないと思います。でもそんなに日本が嫌いだったら出て行ったらいかがですか」という言葉が、それこそナイーブすぎる「素朴な声」なら、この場合も因果関係以前に、間違いを指摘したうえで当人に大人になってもらうしかないだろう。だが逆に、その「暴論」や「素朴な声」が本当に「反戦教育のためにアジアや在日が利用される」から発生するという因果関係の下にあるなら、それらは「暴論」や「素朴な声」ではないし、原因を狩るべきだろう。しかしながら、当事者性のない無責任な「アジアや在日」の利用が経験的に観察されるという問題と、「軍事国家化すれば、アジアの人がどんなに怒るか考えてみよ」という言葉の間には差異がある。仮に「反戦教育」が形骸化した結果「暴論」や「素朴な声」を生んでいるという因果関係があるのだとしても、まずその無責任な「教え方」を批判し改善する余地があり、「~すれば、アジアの人がどんなに怒るか考えてみよ」という言葉の価値引き下げに及ぶとすれば、それは行き過ぎだと思われる。だがそもそも「素朴な声」や「暴論」が噴出する経緯は「そんなに単純なものではない」だろう。
 たとえば、A≪日本が改憲すればどんなにアジアの人々が悲しむか考えてみよ≫に対して、B≪アジアの人々が悲しまなければ日本は改憲してもいいんだよね?≫と応答する類の精神が社会に瀰漫しているとき、その精神と対決するより以上に、Aを除去して(字面上の)Bが発生しないよういわば機能主義的な処理へとむかう行き方は、端的におかしい。金明秀氏の記事にはこれと似たおかしさが読みとれる。「愛着」のエピソードはこのおかしさとよく符合する。


【註1】傍点は省略した。
【註2】括弧内は引用者による補足。傍点は省略した。
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