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加藤典洋「敗戦後論」について


 加藤典洋「敗戦後論」の問題点をいくつか。
 第一に、歴史修正主義との親和性。戦後の日本にはアジアを向いた外向きの自己はほとんど存在してこなかったにもかかわらず、あたかもそれが存在してきたかのように読めてしまう。
 第二に、歴史的経緯が捨象された「アメリカの影」。憲法9条は、日本に厳しい第三の諸国無しには考えられなかったにもかかわらず、あたかも日米関係だけで事が決しているように読めてしまう。
 第三に、「太平洋戦争史観」(吉田裕)との親和性。いかなる戦争を遂行した結果敗戦に至ったのかという歴史的経緯が希薄な構成になっているため、結果として「対中国侵略戦争の延長線上に対英米蘭戦争が発生した」(家永三郎)という歴史意識が希薄な人々にも受け入れやすい構成になっている。
 第四に、植民地侵略戦争という認識の欠如。対中国侵略戦争の結果としての45年の敗戦という経緯の重要性を括弧に入れてしまう構成になっているため、植民地侵略戦争の結果としての敗戦という歴史的経緯は一層不問にされる。加藤の言う「300万と2000万という対比からは、植民地侵略戦争の過程での死者の問題が抜け落ちている」(高橋哲哉)。
 第五に、「アジアの死者」に対する天皇の責任がフェイドアウトしてしまう構成になっている。等々。



 私の考えでは、9条の「ねじれ」として「わたし達日本人」が考えるべきことがあるとすれば、それは次のことである。つまり日本は、19世紀末から日本の敗戦までつづいたアジア諸民族の反日抵抗運動が、反日解放連合軍を結成して日本に逆襲し日本本土を壊滅させた結果、9条を得たのではない。いわばアジアが反撃する権利を十分行使しないうちに「わたし達日本人」は9条を宣言したという点である。「敗戦後論」の本質はこの「ねじれ」を抑圧する点にあると思う。アメリカによる憲法の押しつけという「ねじれ」への拘泥が一定の人々をとらえてしまうのは、その「ねじれ」に憑かれている限り、「わたし達日本人」が確かに「敗戦後」という時間に属しているというイメージをくりかえし確認できるからだと思われる。つまり「敗戦後論」は、「敗戦後」に属する「わたし達日本人」というイメージを(再)確認することで、アジアとの関係では実はずっと戦前(過去のそして未来の戦争の)に属しているかもしれない「わたし達日本人」という90年代に露呈した事実を、意識の表面に浮上させないよう機能する点にその本質があると思われる。「300万の自国の死者」と「2000万のアジアの死者」という併記の本質も、どちらを先に悼むかにあるのではなく、どちらを選択してもアジア=死者のイメージを(再)確認できる点にある。ここで本当に葬られているのは反撃するアジアである。この意味で「敗戦後論」は、対米コンプレックスを動員した疑似対立(を「先に置いた」アジアへの道)を供給することで、実際には死者(被害者)アジアと反日アジアの分割統治への橋頭堡となった点にその歴史的役割があったと思われる。



 反日と向きあう契機を欠く「敗戦後論」は、私には、次の野田正彰の文を想起させる。野田は『戦争と罪責』(1998)で次のように述べている(30-1頁。強調は原文傍点の箇所)。

 私は戦犯として中国の収容所に入れられた多くの将兵に会ってきたが、彼らに共通しているのは、「自分は中国人を虐殺した。だから、事情はどうであれ、自分も中国側に殺されるかもしれない」という怯えを欠如していることである。倫理的な罪の意識の欠如と共に、中国側への強い甘えがある。罪と自覚していないので、責任をとらなければならないとは考えない。だが、罪とは感じなくとも、あれだけ多くの中国人を虐殺したのだから、理不尽であれ自分も殺されると考えてもいいはずである。ところが、そうは考えなかった。
 湯浅さんも、「自分は生体解剖しているのだから(罪であるか否かは別にして)、自分も生体解剖されるかもしれない」と、ぞっとしてもいい。しかし、そうは思わなかった。
 「心の中で弁明しているんですね。命令だった、仕方がなかった、戦争だった、こんなものはよくある、あちこちで普通のことだった、と。もう戦争は終ったしね」
 ここには個人の自覚が乏しく、集団に準拠して生きる人間の精神的強さが、よく表われている。自我が曖昧な人は、集団でいる限り、不安にならない。集団がパニックになる場合、自分もパニックになるが、それは一過性のこと。集団は常に人々の行為の責任をぼかし、すべての行為に同意する装置として機能している。


 暴力と9条の関係において、アジアに対する暴力としての安保、沖縄の軍事基地化、朝鮮半島の分断等の上に成立している9条という事実よりも、(歴史的経緯が捨象された)占領と9条の関係を想起する平和主義は、アジアへの「強い甘え」に依拠した平和主義といってよいのではないか。アジアに対する暴力の上に成立している9条という「ねじれ」と向きあわないで、「わたし達はこの価値観を、いま、大本で、自らのものとしている」(『敗戦後論』(ちくま文庫)25頁)といってのける「敗戦後論」の精神こそ、「「戦後」の自己欺瞞が半世紀も続くとどうなるものかを示す、好個の例証」(同前19頁)だと思われる。「自分たちはアジアの人々を虐殺した。だから、事情はどうであれ、自分たちもアジアの人々に殺されるかもしれない」という「怯え」を欠如した、アジアへの「強い甘え」は、戦後の日本人が(過去から継承している)自分たちの(アジアに対する)暴力・攻撃性と向きあわない事態と表裏一体だと考えられるが、「敗戦後論」に「アメリカの影」はあっても反日と向きあう契機が欠如している理由は、この「強い甘え」のためだと思われる。



 樋口陽一は、日本が「敗戦によっていわば自動的に植民地を失い、植民地解放をめぐる国論の分裂という苦渋を主体的にくぐりぬけることがなかった」ことを指摘したうえで、「「おしつけられ」たのは、憲法だけではない」(同『憲法と国家』19頁)と述べている。「敗戦後論」に、反日と向きあう契機がない、「アジアの死者」に対する天皇の責任を問う視角がない、ということが何を意味するか明らかだろう。つまり「敗戦後論」は、(アメリカによる)「植民地の報復」(同頁)からの保護のおしつけには便乗するが、(アメリカによる)9条のおしつけには文句を言ってみせるという点で、虫がよすぎる。人によっては加藤典洋こそ「国論の分裂という苦渋を主体的にくぐりぬける」試みを「敗戦後論」でやってみせた、と考えるかもしれない。だがそれはおかしい。そもそも植民地解放戦争の泥沼に直面していれば、いやでも反日と向きあわざるをえなかっただろうし、「アジアの死者」に対する天皇の責任もごまかすことができなかっただろう。こういった「苦渋」をすべて括弧に入れてしまったのが甘すぎる占領であり、甘すぎる講和(peace)だったのである。アメリカによる9条のおしつけを指摘するだけで何か占領の真実を言いあてたかのようにふるまえる事自体が、アメリカの甘すぎる占領によって可能になった小賢しい「身ぶり」にすぎない。かつて加藤は「アメリカの影」で次のように述べていた(『アメリカの影』(講談社文芸文庫)40頁)。

ぼくは、ここで一つだけ簡単にいっておきたい。日本文壇(?)は、日本はいまアメリカなしにはやっていけないという思いをいちばん深いところに隠しているが、それを、アメリカなしでもやっていけるという身ぶりで隠蔽している。アメリカなしでもやっていける、という身ぶりが身ぶりでしかないのは、彼らが貧乏を恐れている(!)からである。

 これは次の文を「隠蔽している」。

ぼくは、ここで一つだけ簡単にいっておきたい。「敗戦後論」は、日本はいまアメリカなしにはやっていけないという思いをいちばん深いところに隠しているが、それを、アメリカなしでもやっていけるという身ぶりで隠蔽している。アメリカなしでもやっていける、という身ぶりが身ぶりでしかないのは、「敗戦後論」が反日を恐れているからである。




 「敗戦後論」は、歴史を捨象したアメリカの暴力を特権的に参照する構成になっているため、「わたし達日本人」(のありさま)を、歴史的事実にもとづいて客観的に分析できず、(どの死者に自己同一化するかという)自己イメージ(間の分裂)の問題としてとらえる。したがって「敗戦後論」自身もまた自己イメージの(再)生産になっており、次のC・ダグラス・ラミスの「戦後期」的「自己イメージ」に対する批判が大体あてはまると思われる(C・ダグラス・ラミス『内なる外国――「菊と刀」再考』(1981)186-7頁。強調は原文傍点)。

 私が教えている大学の学生が最近提出した英作文のなかに、次のような驚くべき文章があった。「第二次世界大戦で日本は西洋に負けた」。もちろん、これは「不注意な」表現だが、こういう不注意がまさに、この学生の思想の内面的構造にある口には出されない部分をそのまますべり出させたのである。というのは、大学二年生が事実を知らないためにこのようなことを書くとは信じられないからである。この学生が第二次世界大戦で、ドイツとイタリアが果たした役割を、あるいは中国の役割、韓国および東南アジア全域での反日抵抗運動の役割を知らないはずはない。この文章を説明するとすれば、それはうっかり忘れて書いたものではなく、むしろそうした事実は系統的に排除されてしまう観念の表現なのである。たいていの日本人が、この国の今の時代を、「戦後期」として表現しているように思う。今日のこの国の政治、文化、歴史的方向はすべて、第二次世界大戦の結果によって決められた。日本が戦争で誰に負けたかという問題は、現在の日本の自己イメージにとって決定的に重大だということだ。戦後の日本文化の形象のなかでは、日本は「西洋の文明」に負けたことになっているようだ。
 この概念は、いくつもの機能を果たす。第一に、日本人の人種に対する態度からして、西洋に負けた方が他のアジアの国々に負けたよりは国民的自尊心に対する精神的打撃が少ない。第二に、「西洋の文明」のような超歴史的力によって負かされた方が、国民の利益のためにたたかう単なる国々の連合に負けたと信じるよりは、納得しやすい。それなら不可避な結果だという感じになるわけだ。最後に、「西洋の文明」という概念は、戦後の日本人の歴史的課題を定義づけるのに役立つ。すなわち、「西洋の文明」(特に経済、科学技術の面)の型にできる限り近づくことである。
 読者がもし、私の説明が大袈裟であると感じられるなら、そのかわりに提起しうるもうひとつの歴史的仮説の隠された内容をじっくり考えてみて欲しい。「第二次世界大戦で日本は中国に負けた」(もちろん、これはかなりの部分真実である。中国での戦争の規模と重要性だけを別にして、考えてみよう。もし、アメリカが太平洋で一貫して何年も何年も負けていたら、アジアの利益を捨てて、孤立主義に戻ることは確実だっただろう、しかし、アメリカが戦争から手をひいたとしても、中国は必要があれば、今日までも、闘いつづけたにちがいない)。もし、この公式化が一般的に受け入れられれば、明らかにすべては変わるだろう。戦後日本の全体像、現在の歴史的時期をいかに特徴づけるか、世界の他の国といかに関係を持つか、すべてが変わってくるであろう。このことから、たぶん、「日本は西洋に負けた」という(非歴史的)考え方がもつ重要性をわれわれは理解できる。
 (戦争の記憶が全くない19歳の学生が、敗戦を納得するのに自己欺瞞が必要であるということは信じがたいと、反対されるかも知れない。しかし、それは、同世代のアメリカの若者が、アメリカは勝利したと教えられてきたのに、彼らの態度は何ら深い影響はうけていないと信じるのと同じくらい間違っている。日本が中国によって敗けたことは、歴史の本以外には文字通り見えなくなっているのに、アメリカによって敗けたことは今なおいわれつづけ、日本人の生活のすみずみにまでしみ込んでいるときに、それがなぜ、過去の問題などでありえようか。軍事基地はいぜんとして存在しているし、誰が日本の国際的友人であり、敵は誰であるかは、まだワシントンで決定されているのである。特に、今の気楽な時代に、憤慨したり、つらいことに会って誰も不愉快になりたくない。それをさける方法のひとつは、日本はまさに歴史的な力に負けるべくして負けた、と信じることである。)


 加藤典洋は現憲法に対する自己欺瞞を批判する前に、まず「19歳の学生」の「自己欺瞞」と同レベルの自己欺瞞を自己批判すべきだろう。問題はこの種の「自己欺瞞」が現代版脱亜入欧思想として多くの日本人に共有されている点にある。「敗戦後論」(的発想)はこの手の「19歳の学生」たちに支えられていると考えられる。



 「アジアの死者」という「悪霊」を追い払えないまでも、「アジアの死者」が死んでいることを人々にみせて(安心させて)くれるエクソシストとして、加藤典洋と高橋哲哉はどちらが優秀かと問うことができる。もちろんエクソシストとしては加藤典洋(敗戦後論)が相対的に優秀であって、高橋哲哉の才能はむしろ(アジアに対する)エクソシストとしてまったくつかえないところにある(と私は思う)。同様にもし戦後補償運動がエクソシストの運動、一種の御霊信仰の実践であるなら、「国民基金」(的な運動)がその他の運動より優秀であり、そのゴールとなってしまうの不可避だと思われる。実際、加害者側である自分たち自身が過去から継承している暴力・攻撃性については否定・解体する気がないのに(国家の法的責任・責任者処罰等追求の放棄)、被害者側をいかにソフトに黙らせるか、被害者側の攻撃性(怒り、悲しみ、嘆き、訴え等々加害者側にとって攻撃性として現象するすべてのもの)をいかに解体するかにのみ専心している加害者側の運動は、倒錯というほかないが、一種の御霊信仰の実践と考えれば合理的に理解できる。自分たち日本人が死なないための憲法9条は好まれるが、自分たちが日帝から継承している暴力・攻撃性の否定・解体としての9条からは離脱していった、左派の右旋回とあわせて考えるべきだと思われる。



 アジアの攻撃性を抑圧するためではなく、アジアに対する日本の攻撃性(という悪霊)を抑圧するために9条はおしつけられたのだから、そもそも9条は反日的である。反日と向きあえない日本の左派が「わたし達はこの(平和憲法の)価値観を、いま、大本で、自らのものとしている」と言うことほど悪い冗談はない。


補足
 4で引用した加藤典洋の文の前後は次のようになっている。

 彼(江藤淳のこと:引用者)の一番深い認識は、やはり、日本はいまアメリカなしにはやっていけない、というものである。
 そしてこれは、タブーなのだ。
 なぜ、このことがタブーとなっているのだろうか。
 ぼくは、ここで一つだけ簡単にいっておきたい。日本文壇(?)は、日本はいまアメリカなしにはやっていけないという思いをいちばん深いところに隠しているが、それを、アメリカなしでもやっていけるという身ぶりで隠蔽している。アメリカなしでもやっていける、という身ぶりが身ぶりでしかないのは、彼らが貧乏を恐れている(!)からである。「アメリカ」なしでやる場合、彼らは経済的困窮を覚悟しなければならないが、いまよりも生活程度が下がることを恐れる彼らの本音が『なんとなく、クリスタル』にあらわに現れていればこそ、彼らはこの作品に生理的な反応を生じているのである。
 このことは、現在の日本文学が東南アジア等第三世界への経済侵略の上に成立している日本経済の繁栄を、いまだに直接に指弾できないでいることに見合っている。
 文学もまた、1960年以降の高度経済成長の恩恵をこうむってきた。そのタブーに似た事実のただなかから、一つの小説が書かれた時、それは現今の日本文学の恥部に触れ、何よりも、戦後の「日本文学」が「恥部」をもっているということを知らせたのである。

 劉彩品の言葉を対置しておこう(劉彩品「私は「反日」と言ってはばからない」115頁(『前夜』第1期8号、所収)。)

 私は貧乏が必ずしも不幸だとは思わないよ。いまの中国が豊かになったからといって幸福じゃないのと同じ。それなりで生活できるの。日本の基準で見れば「ひと月一万円で生活できるの? おかしいね。どんなに苦しいか」と思うんでしょう。ある花岡補償運動家が私に言ったの。「劉さんはね、中国の田舎に行ったことがないから、彼らがどんなに貧乏か知らない。二十五万円でも彼らの助けになるんだ」って言ったの。私は大声を張り上げて「いらぬお世話だ!」って言ったんだよ。もう頭にきちゃうでしょう。二十五万円でも助けになると日本の運動家はそう思っているのだ、日本の補償運動は貧しい中国人の救援運動だったのか、と。
 私は日本人を説得する気力がもうない。行くように行きなさいってなっちゃってるのよ、本当に。自分たちがどういう社会をつくりたいというのがなければ、そんなのいくらやってもだめだね。

 「日本の運動家」のおめでたさは加藤典洋のそれにひとしい。
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