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mojimoji「ハルキも泣かずば撃たれまい」について

 「僕」の記事を読んでいたら「犯人は犯行現場に戻る」という話が頭をかすめたよ。それで気になって「犯人は犯行現場に戻る」で検索したら、すぐにこんなのがでてきた。ここである人が次のように書いている。

①証拠隠滅
②現状確認
③再犯

この3点が多いんじゃないでしょうか?
①忘れ物を取りに行く(車・犯行道具・指紋や足跡・アリバイ作り)
②事件になっているか?被害者はどうしてるか?(生死等)
③犯行が容易だった為に、再度犯行を犯す(盗み等)


 これが本当かどうかはさしあたりどうでもいい。面白いのは、この文が「僕」の行為を大体説明しているように読める点だ。「僕」は次のように書いているけど、
 

まぁ、ペラいよね。世界的な小説家であるとは信じがたいほど。昔、エルサレム賞スピーチを擁護した経緯もあるので、落とし前をいくつかつけておく。


 今回の記事全体を通じて「落とし前」というより「証拠隠滅」とか「アリバイ作り」に励んでいるように読めるし、もっというと「現状確認」のうえ「再度犯行を犯」してるようにも読める。気のせいだろうか。「僕」は次のように書いているね。

ちなみに、9.11を数多の「9.11」の中に位置づけること。それを通じて、私たち自身を問い返すこと。こうしたことは、9.11に関連づけたものに限定しても、当時からたくさんの文章が書かれて発表されていたはずだ。おなじみのチョムスキーやサイード、他にも、それこそ小説家も発言してたように記憶してる。そうした発言の数々について、村上春樹はまったく学んでいないということ。これは物を書く人間として相当に恥ずかしいことではないかと思う。


 村上春樹の類が「数多の「9.11」」を無視し「9.11」にのみ驚いてみせるのは、「学んでいない」というより、「犯行が容易だった為に、再度犯行を犯す」連中とその(犯行を批判しているようで実はアリバイを提供し続けている)イデオローグの(関係の)問題として考えた方がよいと思う。現実を批判(的に読解)しているようで実際には現実を擁護している例のスピーチをした村上春樹は、この意味でもたしかに「恥ずかしい」関係をイスラエルとの間にもってしまったと思う。ただこの「恥ずかしい」関係は、イスラエル=村上春樹と、「昨年1月に村上春樹がエルサレム賞を受賞したとき、その受賞スピーチを擁護する一連の文章を」延々と書いていた「僕」との間に、戯画的に誇張されて「再犯」されたんじゃないかしら。そして今の「僕」はどうだろう。「僕」は次のように書いている。出現順序は逆になるけど、まず典型的な方を引用しよう。

既に述べたように、スピーチを批判するか擁護するかは、実は主たる問題ではない。スピーチもろとも、あるいは、スピーチを踏み台にして、そうした「免罪」や「容認」という意味を制作している数多の読者たちを俎上にのせなければならない。村上春樹にこだわればこだわるほど、批判すべき本体を見逃してしまうことになる。


 これは記事の最後の段落で、この文章の末尾には註5が付せられていて「言うまでもなく、このような意味での「読者たち」とは、僕が常々言うところの「観客席の人たち」である。」とある。もうひとつ。

よって、僕自身は村上春樹のスピーチを擁護した。しかし、読めばわかるだろうが、「賞だけもらってかえってくればいいよ、ハルキは無理する必要ないよ」「それでもやったんだよ、ハルキエライ」とか言ってた恥知らずな村上フリークへの批判でもある。そして、問題にすべきはそういう人たちであり、村上のスピーチを擁護するにせよ批判するにせよ、それを通じて「村上に傍観者たることを許そうとした人たち」をこそ批判しなければならない。


 この引用文の末尾には註4がつけられていて「こういう人は、自分自身に対しても「傍観者であってよい」と言うだろう」云々とある。
 この二つの引用文から、とにかく「僕」が、傍観する立場にとどまっていることは問題だ、と考えている事は伝わってくる。
 しかし「僕」は、パレスチナ民衆の現実に対して傍観者的・無責任的な村上のスピーチを公開の場で擁護する論陣をはること「を通じて」、村上春樹の傍観者的・無責任的表現行為を(可能性のレベルどころか)実際に、(傍観・無視するどころか)主体的に、許してしまった―――批評対象(村上のスピーチ)そのものが何とでも解釈できるうえに、「「そうとも言えるが、そうでないとも言える」程度の」「僕」の村上春樹批評が、それこそ「意見を異にする人に届くわけがない」(し実際日本語の中でさえ届かなかった)から、「僕」の行為の客観的意味はそうなる―――。「僕」のなした事実について「僕」はどう考えているのだろう。「僕」の作為と人々の不作為があって、前者が不問にされているとき、後者に肩をすくませてみせたり、いらだってみせたりすることには、どんな意味があるだろう。
 私は以前mojimoji氏に対して次のように書いた。

行為主体である村上春樹を批判するより先に、相対的にしか責任を有さない「観客席」の人々を批判することを主眼とするのは、端的に言って、やはり間違いではないか。パレスチナ問題が自分に無関係な事柄であるかのように生活しながら、都合のよい時だけ観客席から拍手喝采する人々の無責任な偽善ぶりは、確かに批判されるべきだろう。しかしだからといって、このような人々への批判が、村上春樹自身の責任を相対的に不問にする方向へと助勢するとすれば、それは本末転倒というべきだろう。


 要するに私は、この件についてmojimoji氏が、(行為主体の)作為と(第三者の)不作為の差異をいささか慎重さを欠く形で扱った、と判断した。だがいまやmojimoji氏は、(観客席どころか)その行為について不問にされるかつての村上の席に「僕」自身を座らせつつ、なお「僕」は「観客席」を批判し続けるのだから、「僕」の症状は悪化していると思う。
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