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引用

 これに関連して私はとくに知識人特有の弱点に言及しないわけに行きません。それは何かといえば、知識人の場合はなまじ理論をもつているだけに、しばしば自己の意図に副わない「現実」の進展に対しても、いつの間にかこれを合理化し正当化する理窟をこしらえあげて良心を満足させてしまうということです。既成事実への屈伏が屈伏として(原文傍点箇所、以下同様)意識されている間はまだいいのです。その限りで自分の立場と既成事実との間の緊張関係は存続しています。ところが本来気の弱い知識人はやがてこの緊張に堪えきれずに、そのギャップを、自分の側からの歩み寄りによつて埋めて行こうとします。そこにお手のものの思想や学問が動員されてくるのです。しかも人間の果しない自己欺瞞の力によつて、この実質的な屈伏はもはや決して屈伏として受取られず、自分の本来の立場の「発展」と考えられることで、スムーズに昨日の自己と接続されるわけです。嘗ての自由主義的ないし進歩的知識人の少なからずはこうして日華事変を、新体制運動を、翼賛会を、大東亜共栄圏を、太平洋戦争を合理化して行きました。一たびは悲劇といえましよう。しかし再度知識人がこの過ちを冒したらそれはもはや茶番でしかありません。

 私達の眼前にある再軍備問題においても、善意からにせよ悪意からにせよ、右のような先手を打つ式の危険な考え方が早くも現われています。例えば、問題はすでに現在の予備隊が憲法第九条の「戦力」に該当するかどうかというような「スコラ的」論議の段階ではなく、来るべき再軍備においていかにして旧帝国軍隊の再現を防止するか、或いはいかにして文官優越制(シヴイリアン・シユープリマシー、原文ルビ)の原則を確立するかにある―などという所論がすでにあちこちに見受けられますが、これなどその主張者の意図如何にかかわりなく実質的には、上から造られようとしている方向、しかしまだ必ずしも支配的とならない動向に対して大幅に陣地を明け渡す結果しか齎しません。文官優越性の問題自体はここに論ずる限りではありませんが、ただ一言したいことは、それは統帥権の独立や軍部大臣武官制に悩まされた日本でこそ目新しく映りますが、実はすでに第一次大戦における帝政ドイツ崩壊後は世界の文明国家でどこでも確立している原則だということです。むろんそれが確立したのは自由主義の要請にもよりますが、同時に現代戦争において最も有効な戦争指導体制として歴史的に実証されて来たからであつて、文官優越制になつたからとて戦争の危険が著しく減少すると思つたら、それは現代戦争の動因に対する完全な認識不足といつても過言ではないでしよう。むしろ、現代の全体戦争的性格は形式的制度の上で文官武官どちらが優越しているかにかかわりなく、政治家と軍人(或いは政略と戦略)の融合一体化の傾向を示しています。例えば、マッカーサー元帥の罷免はアメリカにおける文官優越制の最も顕著な事例として、日本などでは感嘆と驚異の眼で見られましたが、それはアメリカの政治・経済機構全般の軍事体制化を毫も妨げるものではありません。むしろあの事件はマッカーサーに対するマーシャル・ブラッドレー派の勝利であつて、それによつて国防首脳部の政治的発言権はかえつて実質的に強化されたという有力な見方もある位です。ともかく現在における再軍備の問題の所在を文官優越制にあるかのようにいう事は客観的には、真の争点から国民の眼をそらせる役割を営むものというほかありません。私達は問題意識においてあくまで冷静かつ執拗であるべきで、かりにも事態の急テンポに眩惑されて思想的な「先物買い」に陥つてはならないと思います。

 それからもう一つ、学者や政治家の間には、再軍備の是非は結局国民自身が決めるべき問題であるという―それ自体はまことに尤もな―議論を煙幕として自分の態度表明を韜晦しようという兆しがはやくも見えております。もつともそこにもまたいろいろニュアンスがあつて、実際は自分の内心の立場はきまつているのだが、現在それを表明するのは具合が悪いので、もう少し「世論」がそちらの方に動いて来るのを待とう―或いはもつと積極的には「世論」をその方へ操作誘導して行つてから後にしよう、という戦術派もあれば、また形勢を観望して大勢のきまる方に就こうという文字通りの日和見派もあるでしよう。それはともかくとして、再軍備問題は次の総選挙において最大のイッシューの一つになるでしようから、その結果によつて、またいずれ来るべき憲法第九条の改正をめぐる国民投票において最後の審判が下されるべき問題であることは当然の事理です。しかしながら、いうまでもなく国民がこの問題に対して公平な裁断を下しうるためには最少限度次のような条件が充たされていなければなりません。第一は通信・報道のソースが片よらないこと、第二に異つた意見が国民の前に―一部インテリの前にだけでなく―公平に紹介されること、第三に以上の条件の成立を阻みもしくは阻むおそれのある法令の存在しないこと、以上です。ですから再軍備問題を国民の判断に委ねよと主張する人が、いやしくも真摯な動機からそれをいうのなら、彼は必ずや同時に右のような条件を国内に最大限に成り立たせる事を声を大にして要求すべき道徳的義務を感ずる筈です。もし彼がそうした条件の有無や程度については看過し、もしくは無関心のまま、手放しに国民の判断を云々するなら―もし現在のように新聞・ラジオのニュース・ソースが甚だしく一方的であり(必ずしもうそをついているとはいいませんが)、また異なる意見が決して紙面や解説で公平な取り扱いを受けず、ソ連や中共の悪口はいい放題であるのに対して、アメリカの批判や軍事基地の問題は政令三二五号等々の取締法規のためにおつかなびつくりでしか述べられないという状況―一言にしていえば言論のフェア・プレーによる争いを阻んでいる諸条件―に対して何ら闘うことなしに、ただ世論や国民の判断をかつぎ出して来るならば、私達はそういう人達の議論に誠実さを認めることは出来ません。それらの人は何千万の国民の生死に関係する問題に対しても一段高い所に立つて傍観者的姿勢をくずさず、むしろそうしたとりすましたジェスチュアのうちに叡智を誇ろうとする偽賢人か、さもなければ、現在のマス・コミュニケーションにおいて上のようなフェア・プレーの地盤が欠如していることを百も承知で、逆にそれを利用して目的を達成しようという底意を持つた政治屋か、恐らくそのどちらかでしよう。

      丸山眞男「「現実」主義の陥穽」181-4頁(同『現代政治の思想と行動』(上巻、1956)未来社)。
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