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引用

 以下、矢野久「戦争犯罪追及・戦後補償と歴史学―戦後日独比較」360-362頁(松村・矢野編著『裁判と歴史学―七三一細菌戦部隊を法廷からみる』現代書館、2007、所収)から引用。

……本稿ではとくに、補償運動できわめて重要な位置を占めているだけではなく、従軍慰安婦を扱う女性国際戦犯法廷に関連して積極的に発言し、かつ、自虐史観という批判に対抗して論陣を張っている高橋哲哉氏の議論を取り上げることにする。氏は日本における運動の良心とでも言えるような存在であり、その彼をここで批判の対象にすることについては躊躇しなかったわけではない。しかし氏の政治的姿勢、道徳的な真摯さとは別に、氏の議論が補償運動にとって有効な武器とはなりえないと考え、あえて氏に対する批判を公にすることにした。

 高橋氏が強調するのは「応答可能性としての責任」である。それは、「他者からの呼びかけがあったときに」それに応答すること、「他者に対する責任」を意味する。
 呼びかけには元従軍慰安婦の呼びかけもあり、「英霊の声なき声を聞け」という呼びかけもある。高橋氏によれば、どの呼びかけに、どのように応えるのかは自由に選択すればいいという。しかしこれは、呼びかけがないと応答する必要がないということであり、と同時にこの自由な選択にあたってはなんら判断基準がないということをも意味している。
 ここで高橋氏は他でもなく元慰安婦たちの証言に応答する。高橋氏によれば、元慰安婦の「汚辱の記憶、恥ずべき記憶」(傍線は高橋)を保持しそれに「恥じ入り続ける」ことが「倫理的」・「政治的可能性」を開くという。なぜ元慰安婦たちの呼びかけに責任を感じ、応答するのか。高橋氏は次のように記している。
 「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けるということは、あの戦争が『侵略戦争』だったという判断から帰結するすべての責任を忘却しないことを、つねにの課題として意識し続けるということである。このすべての責任の中には、被侵略者である他国の死者への責任はもとより、侵略者である自国の死者への責任もまた含まれる。」(傍線は高橋)
 つまり、従軍慰安婦が存在したのかどうか、強制的であったのかどうかが、「英霊の声なき声を聞け」という呼びかけからは疑問視されている中で、高橋氏は「侵略戦争であったという判断」に責任の根拠をおき、「責任を忘却しない」ことを求めるのみである。
 しかしこれで従軍慰安婦のみならず、本稿で扱っている人体実験について、その存在自体が問題とされている中で、ドイツにあてはめていえば人体実験の被害生存者の記憶に恥じ入り、責任を忘却しないといくら叫んでも、なんら効果があるとは思われない。私はここで高橋氏の道義性を問題にしているのではない。人体実験という歴史的事実を明らかにし、その罪を明らかにすることが求められているときに、こうした道義性は役に立たない。歴史的事実を明らかにし、それを通して自ら主体的に過去を想起することが重要であろう。高橋氏にはそれが欠如している。
 人体実験があったかどうか。高橋氏の論理にしたがえば、人体実験があったという被害者の呼びかけがないと、応答しないということになる。仮にこの呼びかけに応答したとして、いかなる判断基準をもって「人体実験がなかった」というもう一つ別の呼びかけを否定するのだろうか。歴史的事実が問題にされているときに、哲学的省察でもって応答することで人体実験否定論を突破できるのだろうか。

 ところで高橋氏は、歴史的事実を明らかにするということをどのように位置づけているのであろうか。高橋氏はその著書『デリダ―脱構築』(講談社、一九九八年)で言語論にまで哲学的省察を加えて考察している。デリダを通して氏が主張したいことは、文字として記録された文書が主体からもまたオリジナルなコンテクストからも離脱するとういことである。主体の現前のみならず指示対象一般の現前にも当てはまるということで、たとえば「人体実験があった」という言表の意味は、高橋氏によれば、人体実験があったかどうかという事実とは無関係であるということになる。
 高橋氏は次のように記す。
 「オリジナル・コンテクストの権威も、オリジナルな意味の権威も、こうして失われる。そもそもマークは反復可能性のみによって構成されているのだから、オリジナル・コンテクストのオリジナリティ(根源性)に根拠があるわけではないし、オリジナルな意味の根源性や同一性も同じである。」

 人体実験の記録を想起して、次の高橋氏の言説を考えてみよう。
 「他者のテクストのなにを肯定し、なにを否定するのか、なにを継承し、なにを放棄するのか。他者の呼びかけへの応答としての解釈は、現前する主体の意識的決定の権威がもはや失われてしまったところで、それでもなおそうした決定=解釈の責任=応答可能性の構造のなかに私たちを位置づける。」
 人体実験の事実を究明することではなく、人体実験被害者の主体の権威がなくなった場所(非場所)で、それでもこの他者の呼びかけに応答することを求めているのである。人体実験の記録も根拠がないのであるから、高橋氏の言表は何の役にも立ちそうにない。
 歴史家が残された記録を集め、そこから歴史的事実を究明すること自体に高橋氏は哲学的に懐疑的なのである。哲学的根拠はないといっているのである。

 八 結論的考察
 現代の日本における状況は非常に厳しいものがある。一つは、戦時中の犯罪そのものの存在を否定する論調がますます勢いを増しているからであり、もう一つは、戦争犯罪の事実を前提として被害者の側で闘う陣営においてさえ、戦争犯罪の事実を歴史学的に究明すること自体に思想的・哲学的に疑問視する潮流が、思想界のみならずメディアの一角を形成しているからである。その意味で現代の日本の状況は、ミッチャーリヒがおかれた1950年代のドイツ医学界の状況よりもはるかに厳しいといえるであろう。
 こうした現状を打破するためにはどうすればいいのだろうか。……

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引用

 これに関連して私はとくに知識人特有の弱点に言及しないわけに行きません。それは何かといえば、知識人の場合はなまじ理論をもつているだけに、しばしば自己の意図に副わない「現実」の進展に対しても、いつの間にかこれを合理化し正当化する理窟をこしらえあげて良心を満足させてしまうということです。既成事実への屈伏が屈伏として(原文傍点箇所、以下同様)意識されている間はまだいいのです。その限りで自分の立場と既成事実との間の緊張関係は存続しています。ところが本来気の弱い知識人はやがてこの緊張に堪えきれずに、そのギャップを、自分の側からの歩み寄りによつて埋めて行こうとします。そこにお手のものの思想や学問が動員されてくるのです。しかも人間の果しない自己欺瞞の力によつて、この実質的な屈伏はもはや決して屈伏として受取られず、自分の本来の立場の「発展」と考えられることで、スムーズに昨日の自己と接続されるわけです。嘗ての自由主義的ないし進歩的知識人の少なからずはこうして日華事変を、新体制運動を、翼賛会を、大東亜共栄圏を、太平洋戦争を合理化して行きました。一たびは悲劇といえましよう。しかし再度知識人がこの過ちを冒したらそれはもはや茶番でしかありません。

 私達の眼前にある再軍備問題においても、善意からにせよ悪意からにせよ、右のような先手を打つ式の危険な考え方が早くも現われています。例えば、問題はすでに現在の予備隊が憲法第九条の「戦力」に該当するかどうかというような「スコラ的」論議の段階ではなく、来るべき再軍備においていかにして旧帝国軍隊の再現を防止するか、或いはいかにして文官優越制(シヴイリアン・シユープリマシー、原文ルビ)の原則を確立するかにある―などという所論がすでにあちこちに見受けられますが、これなどその主張者の意図如何にかかわりなく実質的には、上から造られようとしている方向、しかしまだ必ずしも支配的とならない動向に対して大幅に陣地を明け渡す結果しか齎しません。文官優越性の問題自体はここに論ずる限りではありませんが、ただ一言したいことは、それは統帥権の独立や軍部大臣武官制に悩まされた日本でこそ目新しく映りますが、実はすでに第一次大戦における帝政ドイツ崩壊後は世界の文明国家でどこでも確立している原則だということです。むろんそれが確立したのは自由主義の要請にもよりますが、同時に現代戦争において最も有効な戦争指導体制として歴史的に実証されて来たからであつて、文官優越制になつたからとて戦争の危険が著しく減少すると思つたら、それは現代戦争の動因に対する完全な認識不足といつても過言ではないでしよう。むしろ、現代の全体戦争的性格は形式的制度の上で文官武官どちらが優越しているかにかかわりなく、政治家と軍人(或いは政略と戦略)の融合一体化の傾向を示しています。例えば、マッカーサー元帥の罷免はアメリカにおける文官優越制の最も顕著な事例として、日本などでは感嘆と驚異の眼で見られましたが、それはアメリカの政治・経済機構全般の軍事体制化を毫も妨げるものではありません。むしろあの事件はマッカーサーに対するマーシャル・ブラッドレー派の勝利であつて、それによつて国防首脳部の政治的発言権はかえつて実質的に強化されたという有力な見方もある位です。ともかく現在における再軍備の問題の所在を文官優越制にあるかのようにいう事は客観的には、真の争点から国民の眼をそらせる役割を営むものというほかありません。私達は問題意識においてあくまで冷静かつ執拗であるべきで、かりにも事態の急テンポに眩惑されて思想的な「先物買い」に陥つてはならないと思います。

 それからもう一つ、学者や政治家の間には、再軍備の是非は結局国民自身が決めるべき問題であるという―それ自体はまことに尤もな―議論を煙幕として自分の態度表明を韜晦しようという兆しがはやくも見えております。もつともそこにもまたいろいろニュアンスがあつて、実際は自分の内心の立場はきまつているのだが、現在それを表明するのは具合が悪いので、もう少し「世論」がそちらの方に動いて来るのを待とう―或いはもつと積極的には「世論」をその方へ操作誘導して行つてから後にしよう、という戦術派もあれば、また形勢を観望して大勢のきまる方に就こうという文字通りの日和見派もあるでしよう。それはともかくとして、再軍備問題は次の総選挙において最大のイッシューの一つになるでしようから、その結果によつて、またいずれ来るべき憲法第九条の改正をめぐる国民投票において最後の審判が下されるべき問題であることは当然の事理です。しかしながら、いうまでもなく国民がこの問題に対して公平な裁断を下しうるためには最少限度次のような条件が充たされていなければなりません。第一は通信・報道のソースが片よらないこと、第二に異つた意見が国民の前に―一部インテリの前にだけでなく―公平に紹介されること、第三に以上の条件の成立を阻みもしくは阻むおそれのある法令の存在しないこと、以上です。ですから再軍備問題を国民の判断に委ねよと主張する人が、いやしくも真摯な動機からそれをいうのなら、彼は必ずや同時に右のような条件を国内に最大限に成り立たせる事を声を大にして要求すべき道徳的義務を感ずる筈です。もし彼がそうした条件の有無や程度については看過し、もしくは無関心のまま、手放しに国民の判断を云々するなら―もし現在のように新聞・ラジオのニュース・ソースが甚だしく一方的であり(必ずしもうそをついているとはいいませんが)、また異なる意見が決して紙面や解説で公平な取り扱いを受けず、ソ連や中共の悪口はいい放題であるのに対して、アメリカの批判や軍事基地の問題は政令三二五号等々の取締法規のためにおつかなびつくりでしか述べられないという状況―一言にしていえば言論のフェア・プレーによる争いを阻んでいる諸条件―に対して何ら闘うことなしに、ただ世論や国民の判断をかつぎ出して来るならば、私達はそういう人達の議論に誠実さを認めることは出来ません。それらの人は何千万の国民の生死に関係する問題に対しても一段高い所に立つて傍観者的姿勢をくずさず、むしろそうしたとりすましたジェスチュアのうちに叡智を誇ろうとする偽賢人か、さもなければ、現在のマス・コミュニケーションにおいて上のようなフェア・プレーの地盤が欠如していることを百も承知で、逆にそれを利用して目的を達成しようという底意を持つた政治屋か、恐らくそのどちらかでしよう。

      丸山眞男「「現実」主義の陥穽」181-4頁(同『現代政治の思想と行動』(上巻、1956)未来社)。

引用

 “占領ボケ”ということばがまだ生きているくらい、当時大多数の日本人はアメリカ軍のいいなりに、北を侵略軍とイメージした。とりわけ、本来ならば労働者の国際連帯の立場に立つべき労働組合がすでにそうだった。総評が、民同を中心にまさにこの時期に生まれてくるわけですが、GHQの示唆を受けながら生まれてきた総評は、GHQの評価を鵜呑みにしたような朝鮮戦争観をそのまま機関決定として公式に打ちだした。「北は侵略軍であるから、国連軍の正義の行動は肯定されるべきである」という基本認識に立って、したがって、「それに協力するような軍需産業にかかわることもやむをえない」と肯定し、しかし、「戦火に巻きこまれることだけはゴメンだ」という被害者意識を、自主性の証しのつもりで最後につけ加えている。
 はしなくも、この文章が示している思想をもう少し拡大していくと、じつは戦後民主主義体制のなかでわれわれが自己の内につくりだしている意識構造の原型なのだという思いがします。つまり「アメリカあたりの悪い奴がやる戦争にひきずりこまれるのはゴメンだ。日本は平和国家だ。しかし北の侵略軍も悪い」そういったような発想に安住していられる無神経さ。そもそも戦後民主主義というけれども、そのことばの意味が定着するのは本格的には、むしろ朝鮮戦争後なのではないか、と私は考えています。朝鮮戦争を全体としてこのような形でしか体験しえなかったことが、日本人民のその後の一つひとつの転機にたえず実質的に負い目として覆いかぶさってきているのではないかとも考えます。(梶村秀樹「8・15以後の朝鮮人民」75頁(梶村秀樹著作集第5巻所収))
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lmnopqrstuと申します。
在日朝鮮人です。
2009年2月~9月のブログは
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