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金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」について

1.はじめに

以下金明秀氏の「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」を検討する。

この論考についてはすでにkscykscy氏が的確な批判を加えておられ、本質的な問題はそこに出ていると思われるので、ここでは、主に表現行為の側面に注意して、金明秀氏の論考(以下金明秀論考と略称する)を検討していく。

結論から言うと、金明秀論考に戦略性などあって無いようなものに等しいのだが、どうしてそう言えるか順に説明していく。

なおkscykscy氏と金明秀氏との間のその後の議論の展開については抗議を参照。



2.そもそも戦略性を維持できるかあやしい

金明秀氏はまず「「普通の人々」は、危険の存在を暴き立てるような行動(例えば原子力発電反対デモに参加するとか)をとることで一時的に「避雷針」として敵意の対象となるだけだが、行動とは無関係に属性によって恒常的に「避雷針」の役割を押し付けられる人々がいる」とし、そのような人々を「他者」とする。

そして「スケープゴートになりやすい「他者」の例として「ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者など」を挙げる」議論を紹介した上で「日本では、「朝鮮人」が筆頭に加わることになろう」と述べている。

さらに「「他者」をリスクそのものとみなす非合理的な観念は、残念なことに、こうした一部の狂信的な政治思潮の保持者だけに流布しているものではない。朝鮮学校「無償化」除外問題をめぐって改めて明らかになったことは、日本政府こそが、在日朝鮮人を再生産するための教育機関を「リスク」としかみなしていないという事実であった」と述べている。

そして金明秀氏は「リスク・コミュニケーション」を次のように導入する。

「「他者」は、自分自身を「リスク」とする屈辱的な役割をひとまず引き受けた上で、そのリスクは不安に思う必要がないほど低く、そもそもリスクという役割を付与することが間違っているのだと多数派を説得しなければならない。これが「他者」にとってのリスク・コミュニケーションである。」

こう定義した上で金明秀氏は、「リスク・コミュニケーションを実践する場合のヒント」として「朝鮮学校の存在がどのように日本の役に立っているか」を論じていくのである。

ここからが本題である。引用文中の非合理的な言表を「ひとまず引き受け」という点に注目しよう。「ひとまず引き受け」ようということは<ひとまず肯定しよう>ということに等しい。だが当該言表を肯定するということは、行為遂行的には、被害をうける者自身がわざわざ、当該言表行為を遂行する主体に対して、(その行為遂行主体が)当該言表行為遂行の権利を所有していることを肯定(=承認)することを意味する。

だから「「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略」は、戦略としてのいわばメタ論理性が押しつぶされて、実態としては、次のようなコミュニケーションに帰結すると考えられる。

<あなたたちに一方的にいじめられるという役割の他にも役に立っている面があるんです。だからあまりいじめ過ぎないでください。他の役割がこなせなくなりますから。>

非合理な言表を行う権利が(被害をうける者自身からわざわざ)相手に付与されていて、かつ(被害をうける者が)「ひとまず引き受け」た役割の解除が客観的に保障されていない以上、このようなコミュニケーションになるのは目に見えている。「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください。」「ほんとだ。役に立ってるんだね。もういじめるのやめるね❤」となるわけないだろう。

要するに金明秀氏は、実際のコミュニケーションにおいては、相手の言表内容に対する肯定と相手の言表行為に対する肯定の区別を都合よく維持しうるような、メタ論理(=戦略)的肯定の立場など保障されていないということ自体がわかっていない(あるいはこの問題のリスクを著しく過小評価している)。大学の講義では壇上(メタ論理)から学生の理性(論理)に訴えて「多数派を説得」できるかもしれない。だが社会はそういう風にできていない。<それは間違っている>と言わないで「ひとまず引き受け」てどうするのか。「ひとまず引き受け」たら最後二度とおりられないのがいじめの現実だと認識する方が、はるかに合理的なリスク認識というべきである。



3.そもそも戦略を考えているかあやしい

とはいえ表現行為に注目した場合のこの論考の核心は上の論点にあるのではなく次の点にあると思われる。すなわち、一方で、日本にとって「他者」在日朝鮮人そのものがリスクであるという信念が「馬鹿げたもの」であり「ナンセンス」であると正しく認識しているにもかかわらず、他方で、朝鮮人にとってこそ侵略と植民地支配を行う日本が大きなリスクであったし、それを反省しない日本は今なお危険であるという歴史的事実に依拠した、客観的かつ主体的危険認識が(論考中に)まったく現れてこないことそれ自体である。

<ⅩにとってYは危険である>という認識が間違っていたとしても、それにひきずられて<YにとってⅩは危険である>という認識も却下されるということにはならないのだが、金明秀氏の表現行為の<面白い>ところは、そういう逆転した関係認識が独自に成立する可能性を行為遂行的に忘却させる効果をもっている点にある(以前類似の問題を指摘した)。歴史的な権力関係や支配服従関係の<自然><永遠>視の下で、特定の関係認識が成立している場合は、それを逆転させた関係認識が成立する可能性を、あらかじめフェイドアウトさせてしまう表現行為が何の「役に立つ」かということは自明である。

要するにこの論考は、在日朝鮮人に対して危険(リスク)を主体的にとらえ返すいとまを与えないで、論理的にいわば受動的防衛姿勢をとらされたままの在日朝鮮人に対して直接「リスク・コミュニケーション」を差し出すという形態をとって記述されている。論考の説得性の強度もこの(ソフトな口調とは裏腹の)強迫的立論構成によって同時に調達されている。換言すればこの論考は、そのまま出せば単に無謀な「リスク・コミュニケーション」を、朝鮮人の主体性を首尾よく忘れさせる立論構成という<フィルター>を通すことで、届く人には届いてしまうように記述されているのである。

だから金明秀論考の本質は、朝鮮人の運動戦略を説いているのに、朝鮮人の立場から危険をとらえかえす視点がない、という点にある。ずっと暴力を被って大変ね、でも時代はリスク社会なんです、とさらっとぶって、「民族運動」に関心のある朝鮮人が「運動戦略」を「ああ、そうですね」と変えるだろうと、本気で金明秀氏が思っていたのだとすれば、「民族運動」も随分となめられたものである。危険を朝鮮人の立場からとらえかえすと金明秀論考はどうみえるかという点に最後に少しふれておこう。



4.疑似的主体性と疑似対立の供給

丸山真男によれば「B・ラッセルはかつて、中国文化にたいするヨーロッパ文化の優越は、ダンテ、シェイクスピア、ゲーテが孔子、老子にたいして勝を占めたという事実に基づくのではなく、むしろ、平均的にいって、一人のヨーロッパ人が、一人の中国人を殺すのは、その逆の場合よりも容易だという、はるかにブルータルな事実に基づくのだ、と辛らつな言を吐いた」という(『日本の思想』27-8頁)。

これを誰が言ったかはどうでもいいのだが、「ブルータルな事実」は身も蓋もない真である。つまり次のように言うべきである。

在日朝鮮人の生活において、現在なお、朝鮮文化が日本文化に圧倒されており、朝鮮学校の運営すらますますままならなくなっているという現実は、日本文化が朝鮮文化に勝を占めたという事実に基づくのではない。そうではなく、むしろ、平均的にいって、一人の日本人が、一人の朝鮮人を殺すのは、その逆の場合よりも容易であったという、はるかにブルータルな事実に基づいており、そのようなブルータルな事実の集積の結果形成された歴史的構造が解体されないまま、戦後日本がその遺制の上に構築されている歴史的現実に基づくのだ、と。

この「ブルータルな事実」の蓄積に基づく客観的リスク認識からすれば、金明秀氏のいう「在日コリアンのリスク・コミュニケーション」はまさに「危険に曝されても、合理的なリスク意識を形成するとはかぎらず、むしろ不安にかられて非合理的な推論に逃げようと」した結果の疑似的主体性(の定立)だと考えられる。したがってまた、氏が論考中で暗に示唆している「祖国志向の強い在日コリアン」対そうでない人々とでも言うべき対立構図は、歴史の中で実際に衝突している、日本社会の執拗な、幻想的かつ非合理的リスク認識と、朝鮮人の主体的な、客観的かつ合理的リスク認識の対立を隠蔽する、疑似対立であると考えられる。



5.おわりに

以上から金明秀論考の「戦略」がきわめて危ういものであることはだいたい明らかになったと考える。金明秀論考の客観的機能は、在日朝鮮人の自律的判断力の麻痺であり、在日朝鮮人の日本社会への従属を一層深化させる下地の形成であると考えられる。
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抗議

 岩波書店労働組合による金光翔氏「除名」処分および岩波書店による金光翔氏解雇通告に抗議します。

【参照】
片山貴夫のブログ、急報 岩波書店が金光翔さんに「解雇せざるをえない」と通告
media debugger、岩波書店へのメール3
横板に雨垂れ、岩波書店へのメール文
全体通信、金光翔氏の解雇を許してはならない  等々。


 渡辺洋三『法とは何か 新版』岩波新書、1998、197頁。

…労働者は、もともとは市民であって、市民的自由を保障されている。労働組合も憲法上は、結社の一つである。使用者に対抗し、労働者に有利になるようにつくられた結社のはずなのに、それが組合員個人の思想・信条の自由を侵すことになれば、本末転倒である。
 日本の労働組合にも、構成員の市民的自由を尊重し、その自由を基礎に団結力も強い民主主義的組合はもちろんある。しかし、それはまだ多数派ではない。組合らしくない組合の方が多い。前にものべたが、企業一家理念から抜けきれず、労使協調を名実ともに看板としているからである。個の未確立の上につくられた集団は、もろいものである。日本の労働組合が、欧米の組合よりも力が弱いゆえんである。昭和初期に労働組合が国策にしたがい、なだれを打って翼賛体制に統合された昔の歴史を忘れてはなるまい。


 渡辺洋三著『法を学ぶ』岩波新書、1986、226-7頁。

 昔とちがって今の日本人は、私益の追求に熱心である。しかし、その追求のパタンは、他の私的利益との対立の中でみずから勝ちとってゆくパタンでなく、各種集団の中で集団に依存しながら、集団全体の利益の一部の配分をうけるというパタンである。この点が利益社会と権利社会の根本的差異である。私は、この特質を、「ぐるみ利益共同体」と名づけたい。それは、家ぐるみ、村ぐるみ、農協ぐるみ、企業ぐるみなどの集団的利益のことである。この種の利益共同体が政治的には、政治献金と利益誘導・供与型の政治関係をうみ出し、結局は、公的資金を管理できる立場にある与党の長期にわたる支配を維持させている重要な要因であることも広く知られている。それゆえにこそ、戦後の近代化は、広範な各種利益共同体を噴出させたとはいえ、それが権利社会の成長や国民の権利意識の向上につながらなかったのである。
 このままでゆくならば、国家ぐるみの利益共同体=国家的利益(ナショナル・インタレスト)が、戦前と異なる形にせよ、やがて形成されてゆくのではなかろうか。すでに、この種の新しい装いをとったナショナリズムが「愛国心教育」として進められつつある。「経済的に豊かで、平和で、争いも少なくて、こんな良い国はありませんよ。この良い国を守ることが、あなた方の義務ですよ」と。


 イェーリング『権利のための闘争』岩波文庫、1894、63頁。

 私はこうした議論を、権利感覚というものが権利侵害の重大さをもっぱら身分的利害によって測る結果、権利感覚の敏感さの程度は身分・職業ごとに異なっている、という単純な事実を確認するために展開したのではない。この事実は、私にとって、はるかに大きな意味のある真理に正しい光を当てるため役立つべきものにすぎない。その真理とは、どんな権利者も自分の権利を守ることによって自分の倫理的生存条件を守るのだ、という命題である。けだし、右に見たように、農民・将校・商人のいずれにおいても権利感覚の感度が最も高いのはそれぞれの身分特有の生存条件にかかわる点であるが、そのことからして、権利感覚の示す反応は通常の激情とは違って気質とか性格とかいった個人的要素だけにもとづくものではなく、一つの社会的要素、すなわちそれぞれの身分独自の生活目的にとって当該の法制度が欠かせないものだという感覚にもとづくものでもあることがわかる。権利侵害があった場合に権利感覚がどれだけ力強く発揮されるかということが、個人や身分や国民が自分と自己独自の生活目的のための権利の意義――権利一般および具体的な法制度の意義――をどれだけよく理解しているかについての、最も確かな指標なのである。この命題は、私には普遍的な真理だと思われる。


mojimoji「ハルキも泣かずば撃たれまい」について

 「僕」の記事を読んでいたら「犯人は犯行現場に戻る」という話が頭をかすめたよ。それで気になって「犯人は犯行現場に戻る」で検索したら、すぐにこんなのがでてきた。ここである人が次のように書いている。

①証拠隠滅
②現状確認
③再犯

この3点が多いんじゃないでしょうか?
①忘れ物を取りに行く(車・犯行道具・指紋や足跡・アリバイ作り)
②事件になっているか?被害者はどうしてるか?(生死等)
③犯行が容易だった為に、再度犯行を犯す(盗み等)


 これが本当かどうかはさしあたりどうでもいい。面白いのは、この文が「僕」の行為を大体説明しているように読める点だ。「僕」は次のように書いているけど、
 

まぁ、ペラいよね。世界的な小説家であるとは信じがたいほど。昔、エルサレム賞スピーチを擁護した経緯もあるので、落とし前をいくつかつけておく。


 今回の記事全体を通じて「落とし前」というより「証拠隠滅」とか「アリバイ作り」に励んでいるように読めるし、もっというと「現状確認」のうえ「再度犯行を犯」してるようにも読める。気のせいだろうか。「僕」は次のように書いているね。

ちなみに、9.11を数多の「9.11」の中に位置づけること。それを通じて、私たち自身を問い返すこと。こうしたことは、9.11に関連づけたものに限定しても、当時からたくさんの文章が書かれて発表されていたはずだ。おなじみのチョムスキーやサイード、他にも、それこそ小説家も発言してたように記憶してる。そうした発言の数々について、村上春樹はまったく学んでいないということ。これは物を書く人間として相当に恥ずかしいことではないかと思う。


 村上春樹の類が「数多の「9.11」」を無視し「9.11」にのみ驚いてみせるのは、「学んでいない」というより、「犯行が容易だった為に、再度犯行を犯す」連中とその(犯行を批判しているようで実はアリバイを提供し続けている)イデオローグの(関係の)問題として考えた方がよいと思う。現実を批判(的に読解)しているようで実際には現実を擁護している例のスピーチをした村上春樹は、この意味でもたしかに「恥ずかしい」関係をイスラエルとの間にもってしまったと思う。ただこの「恥ずかしい」関係は、イスラエル=村上春樹と、「昨年1月に村上春樹がエルサレム賞を受賞したとき、その受賞スピーチを擁護する一連の文章を」延々と書いていた「僕」との間に、戯画的に誇張されて「再犯」されたんじゃないかしら。そして今の「僕」はどうだろう。「僕」は次のように書いている。出現順序は逆になるけど、まず典型的な方を引用しよう。

既に述べたように、スピーチを批判するか擁護するかは、実は主たる問題ではない。スピーチもろとも、あるいは、スピーチを踏み台にして、そうした「免罪」や「容認」という意味を制作している数多の読者たちを俎上にのせなければならない。村上春樹にこだわればこだわるほど、批判すべき本体を見逃してしまうことになる。


 これは記事の最後の段落で、この文章の末尾には註5が付せられていて「言うまでもなく、このような意味での「読者たち」とは、僕が常々言うところの「観客席の人たち」である。」とある。もうひとつ。

よって、僕自身は村上春樹のスピーチを擁護した。しかし、読めばわかるだろうが、「賞だけもらってかえってくればいいよ、ハルキは無理する必要ないよ」「それでもやったんだよ、ハルキエライ」とか言ってた恥知らずな村上フリークへの批判でもある。そして、問題にすべきはそういう人たちであり、村上のスピーチを擁護するにせよ批判するにせよ、それを通じて「村上に傍観者たることを許そうとした人たち」をこそ批判しなければならない。


 この引用文の末尾には註4がつけられていて「こういう人は、自分自身に対しても「傍観者であってよい」と言うだろう」云々とある。
 この二つの引用文から、とにかく「僕」が、傍観する立場にとどまっていることは問題だ、と考えている事は伝わってくる。
 しかし「僕」は、パレスチナ民衆の現実に対して傍観者的・無責任的な村上のスピーチを公開の場で擁護する論陣をはること「を通じて」、村上春樹の傍観者的・無責任的表現行為を(可能性のレベルどころか)実際に、(傍観・無視するどころか)主体的に、許してしまった―――批評対象(村上のスピーチ)そのものが何とでも解釈できるうえに、「「そうとも言えるが、そうでないとも言える」程度の」「僕」の村上春樹批評が、それこそ「意見を異にする人に届くわけがない」(し実際日本語の中でさえ届かなかった)から、「僕」の行為の客観的意味はそうなる―――。「僕」のなした事実について「僕」はどう考えているのだろう。「僕」の作為と人々の不作為があって、前者が不問にされているとき、後者に肩をすくませてみせたり、いらだってみせたりすることには、どんな意味があるだろう。
 私は以前mojimoji氏に対して次のように書いた。

行為主体である村上春樹を批判するより先に、相対的にしか責任を有さない「観客席」の人々を批判することを主眼とするのは、端的に言って、やはり間違いではないか。パレスチナ問題が自分に無関係な事柄であるかのように生活しながら、都合のよい時だけ観客席から拍手喝采する人々の無責任な偽善ぶりは、確かに批判されるべきだろう。しかしだからといって、このような人々への批判が、村上春樹自身の責任を相対的に不問にする方向へと助勢するとすれば、それは本末転倒というべきだろう。


 要するに私は、この件についてmojimoji氏が、(行為主体の)作為と(第三者の)不作為の差異をいささか慎重さを欠く形で扱った、と判断した。だがいまやmojimoji氏は、(観客席どころか)その行為について不問にされるかつての村上の席に「僕」自身を座らせつつ、なお「僕」は「観客席」を批判し続けるのだから、「僕」の症状は悪化していると思う。

姜萬吉の韓国冷戦勢力批判(5)

冷戦勢力克服の道は何であるか
 冷戦勢力克服の道は、第一にかれらの成立した要件、すなわち根を除去し、第二にかれらが依存しその勢力を強化した背景を清算し、第三にかれらの生存根拠と属性を正確に抽出し消去することだといえる。冷戦勢力の根は親日勢力であったと述べた。第二次世界大戦が終了すると、わずか5年間ナチの支配をうけたフランスでは、ナチに協力したフランス人約13万人を裁判し、死刑執行約800名、終身強制労働刑2700余名など、総約5万名を処罰した。日本帝国主義の侵略を15年間うけた中国蒋介石政府は、日本帝国主義が敗戦した1945年から1947年までの2年の間に、親日反民族勢力、すなわち漢奸3万8000余名を起訴し、死刑を含む1万5000余名を処罰した。
 しかし周知のように35年間日本帝国主義の侵略をうけたわたしたちの民族社会の場合、米軍政は言うまでもなく、李承晩政権も「反民族行為処罰法」をつくりはしたが親日派に対する処罰をうやむやにした。この状況から半世紀を経ることで直接親日行為をした者は大部分死亡し、一部生存しているとは言っても処罰の必要がないほど廃物となった。冷戦勢力を克服するための根である親日勢力を克服する必要性が高いといっても遡及法を制定するのは難しく、仮に制定するとしても親日行為をした当事者はすでに大部分死亡し、その後継たちがたとえ現在の冷戦勢力を構成する重要な部分であるとしても連座法を適用することはもちろんできない。
 しかし冷戦時代を超え新しい世紀を迎えて民族問題を和解と協商を通じて平和的に解決しようとするとき、親日後継勢力が冷戦勢力となってそれを阻害する反歴史的要素になっているのであれば問題は深刻である他ない。冷戦勢力の根である親日勢力をいま実定法で罰し得ないとしても、歴史的清算を徹底的にすることが冷戦勢力克服の重要な方法のうちの一つであることは強調せざるをえない。とくにこの先、親日勢力の粛清を比較的徹底して行った北側と平和統一をする過程において、親日勢力に対する歴史的清算は必須的要件となるだろう。
 次に、過去において親日勢力と冷戦勢力が棲みついてきた温床は独裁政権であった。したがって冷戦勢力を克服する道は独裁政権の残滓を徹底的に清算して民主主義を積極的に発展させる道であるといえる。1990年代に至って金泳三政府、金大中政府などが登場することで、政治的民主主義はある程度進展したといえる。しかし金泳三政府は盧泰愚軍事政府と三党統合を通じた野合によって成立し、金大中政府は金鐘泌旧軍事政府勢力との連合によってのみ成立しえたのである。
 解放後はじめて与・野間の政権交代が成立したとはいえ、金大中政府は民主勢力単独で成立しえず、それゆえいまなお冷戦勢力の相当部分が保守勢力という名の下に権勢をふるい気勢をあげている。金大中政府が民主勢力のみで成立できなかったことはその責任が国民にあり、今後金大中政府以降の政府を徹底して民主勢力のみで成立させることが、冷戦勢力を克服する重要な当面の課題のうちの一つであるといえる。
 民主勢力のみで成立しえなかった金大中政府の下では政治的民主主義も期待通りには進展しえなかった上に、経済改革と呼ばれる経済的民主主義も大きな難関にぶつかった。30年のあいだ軍事独裁政権時代を通じて形成された非民主的経済構造と独裁軍部と癒着した経済勢力が適切に除去されない限り冷戦勢力の克服は困難である。事実、親日勢力やその変形としての冷戦勢力は政治勢力としてのみ存在しているのではなく経済勢力にもその重要な部分を占めている。経済的民主主義の発達は冷戦勢力の温床自体を除去する重要な道の一つである。
 先にも述べたが、冷戦勢力は言うまでもなく統一問題が平和的に推進されることを嫌悪し、南北の間での冷戦体制がつづくことを願うのである。したがって南北のあいだの平和統一政策を積極的に推進することこそが、冷戦勢力を克服あるいは解体する近道である。過去、冷戦勢力は6・25戦争以降たとえ戦争統一を表では主張しなかったとしても、北側でまったく受容し得ない国連監視下での南北韓総選挙案やあるいは北韓だけでの総選挙案を主張しながら冷戦体制を維持してきた。要するに正しい意味での平和統一案を拒否したのである。
 そのうちドイツで西ドイツによる東ドイツの吸収統一がなされるや、韓半島の冷戦勢力たちもかれら中心の吸収統一を強力に希望した。金泳三政権の南北頂上会談の合意が吸収統一路線の一時的政略からでたものでないなら、一方の首脳が死亡したとき、その後継権力との会談の企図のためにも、弔問騒動のようなことは生じなかっただろう。しかしたとえ首脳会談に合意したとはいえ、それは冷戦勢力の一時的政略であって正しい意味での和解統一・協商統一・平和統一政策からでたものではなかったために、一方の首脳が死亡するや否や弔問騒動がおこりただちに冷戦体制を維持する方にむかったのである。
 後日のことだが、その後継である金大中大統領が平壌で第1回南北首脳会談を成功させ、第2回首脳会談のため金正日委員長がソウルに来るとなるや、過去の在任中首脳会談に合意したことのある金泳三前大統領が、金正日委員長のソウル訪問に反対する国民運動を展開すると述べた事実からも、その在任中の首脳会談の合意が和解・協商・対等・平和統一政策からでたのではなく、冷戦勢力の一時的政略に過ぎなかったことが十分証明される。
 前に述べたように、金大中政府は平和統一勢力のみで成立した政権ではなく、冷戦勢力・反北勢力の一部と連合して成立せざるをえなかったために、政権成立後しばらくのあいだは積極的和解政策が実施されるのは困難であった。そうでありながら正しい意味での平和統一のための包容政策、すなわちわたしたちの言うところの積極的和解政策がねばり強く続けられたことで最初の南北首脳会談が成功し6・15共同宣言がなされたのであり、それが冷戦勢力に対して大きな危機意識を与えたのである。しかし対北和解政策及び協力政策の進展に脅威をいだき身震いする冷戦勢力を克服する道は、和解政策・協力政策をひきつづき積極的に展開してゆくことだといえる。そして前にも述べたように、金大中政府以降においては、民主勢力・平和統一勢力のみの新政府を成立させることが重要である。
 要するに現在の時点における冷戦勢力克服の道は、まず冷戦勢力の根と言える親日勢力に対する歴史的清算を徹底することが重要である。とくに南北のあいだで和解・平和統一政策が推進されている時点において、相対的に親日派の粛清が不徹底であった南側の場合、北側との均整を維持するためにも親日派に対する徹底的な歴史的粛清が要求されている。
 解放後、親日勢力が政治・経済・文化界などにそのまま生き残りえたもっとも重要な原因は、李承晩独裁体制と朴正煕政権をはじめとした軍事独裁政権の継続であったと先に述べた。李承晩政権と軍事政権を含めて40年を超える独裁期間は解放後わたしたちの歴史の大部分を占め、その期間を通じて政治・経済・社会・文化などに至るわたしたちの歴史全体が歪曲され、それがただちに冷戦勢力が棲む温床となった。独裁体制の根を除去し冷戦勢力の棲みかを除去するために、政治・経済・社会・文化的民主主義を確立してゆくことはただちに冷戦勢力を克服してゆく道となるのである。
 親日勢力から冷戦勢力へと至る一連の勢力たちは必然的に反北勢力となるのであり、したがって北側との間で冷戦気流が継続することにおいてのみその生存空間が維持されるのである。かれらが南側中心の武力統一や吸収統一を念願するのもそのためであり、武力統一や吸収統一の可能性が希薄化し南北協商統一・和解統一・対等統一の展望や可能性が高じるほどに焦燥に駆られるのもそのためである。したがって冷戦勢力を克服する道は平和統一・協商統一・和解統一の道をひきつづき広げてゆく道であると言う他ない。

姜萬吉の韓国冷戦勢力批判(4)

冷戦勢力の歴史的属性は何であるか
 冷戦勢力を克服し清算するためには、かれらがもつ歴史的属性を正確に理解する必要がある。第一にかれらは民主主義の発展を喜ばないと言う点で際立っている。日帝強占時代を通じて政治・経済・社会・文化的民主主義の発展が極度に制約されたわたしたちの民族社会は、民族解放こそが民主主義の発展において革命的契機となるべきだったのであり、そのようになっていれば社会の各部門における親日勢力も革命的に粛清され残存しえなかったであろう。
 歴史的に、現実的に、清算されるべき勢力が清算されずに政治・経済・社会・文化的現場にそのまま残存するためには、その政治体制が民主体制となってはならず独裁体制が適合するものである。李承晩独裁体制や朴正煕独裁体制が、清算されて然るべき親日勢力とその再版としての冷戦勢力の隠れ家ないし保護所となったのはあまりにも当然のことであった。だからこそ親日勢力・冷戦勢力の属性は民主主義の発展、ひいては歴史の発展自体を嫌悪するのである。
 世界史的に20世紀の帝国主義時代及び東西冷戦体制が清算され平和主義時代・文化主義時代が展望される21世紀には、韓半島においても政治・経済・社会・文化的民主主義が一層前進し南北が和解することで平和統一を志向してゆく道が歴史の正しい方向であることは間違いない。しかし独裁体制を主導あるいはその陰に棲んでいた冷戦勢力としては、民主主義が発達して南北が和解することで平和統一へと向かう場合、棹差す空間が消滅することは自明である。とくに民主主義の発達と平和統一への志向の強度が高じるほど、かれらに対する打撃は致命的なのであり、だからこそ冷戦勢力としてはあらゆる手段を動員して南北和解と平和統一論を阻止するのである。しかし旧時代は過ぎ新時代がくるのであり、歴史とは発展するものである。
 自分の立場を正当化するために極めつけの反民族勢力でありながら民族主義勢力の仮面をかぶり、民族の他方を敵視するのが冷戦勢力の第二の属性である。日帝強占時代の親日勢力を母体とする冷戦勢力が解放後も生き残るためには日帝時代を通じてかれらと敵対関係にあった、左であれ右であれ民族解放運動勢力と、ひきつづき敵対する以外になかったとは先に述べた。
 親日勢力を母体とする冷戦勢力が解放後も粛清されずに政治・経済・社会的位置を維持するためには、かれらが生き残り続けたことの正当性を前面に押し出す必要があった。それゆえ、過去の自身の反民族的行跡を隠蔽するためにも、自身の路線、すなわち反共主義及び反北主義路線を民主主義路線であるとでっちあげる以外なかった。そして親日勢力が民族勢力へと転身するためには過去の民族解放運動路線を否認あるいは黙殺するか、さらには反民族的路線としてでっちあげる以外なかった。その際、反共主義を強調し、日帝時代の民族解放運動勢力を左右の別なく、共産主義勢力および容共勢力として追い込んでいくことがきわめて効果的であった。
 南韓単独政府樹立に参加しなかった臨時政府勢力については、共産主義者あるいは容共主義者として追い込んで粛清したが、民族解放運動戦線から解放後の時代にまでいたる社会主義勢力に対しては、積極的に敵対せざるをえず、またそうしてこそ現実的に自己勢力の正当性が成立すると考えたのである。この場合反単独政府勢力、すなわち南韓単独政府樹立反対勢力の全体に対しては、左右の別なく、民族の一部という意識よりも敵対意識がより先立たざるを得ず、かれらと妥協して共に生きるという考えよりも、討って滅する対象とみる考えが先行せざるを得なかったといえる。
 冷戦時代や軍事独裁時代には、かかる冷戦意識が別に問題となることはなかった。6・25戦争の際と同様に、北は民族の一部である前に敵であり、米国は他国ではなく血盟の友邦であったためである。しかし帝国主義時代と冷戦時代へと継承された20世紀が過ぎ去ることで、世界史的に冷戦体制が解消され、民族史的にも南北和解の時代が到来している。民族のもう一方を同族として考えることができず敵としてのみ考えた冷戦勢力は選択の岐路にあるようだ。敵としてのみみてきた民族の一方を今からでも同族とみて和解し協力してゆく対象とするのか、あるいは時代の変化と民族問題の進展に共に参与することができず冷戦勢力としてそのまま生き残り続けるか、選択はかれら次第である。
 政治・経済・社会的位置を維持するために外勢と容易に結託することを冷戦勢力の第三の属性としてあげることができる。過去半世紀のあいだ南韓の冷戦勢力が依存したのは「血盟の友邦」米国であり、とくに駐韓米軍はかれらの頼もしい背景だった。したがって駐韓米軍撤収論を、かれらは亡国的・反国家的・反民族的論議であると罵倒してやまなかった。南側の国力が北側の何十倍となっても、南側軍隊の武器の性能が北側よりもどんなに優秀であっても、かれらは常に北側の南側に対する攻撃の危険性を強調し誇張しながら、米軍撤収がただちに戦争につながるかのように言ってきた。
 しかし世界史において東西冷戦時代が過ぎ、韓半島において南北和解時代が近づいてくることで、駐韓米軍無用論がゆっくりとではあれ台頭しはじめている。米軍が撤収して東アジア地域が平和になるか、東アジア地域が平和になって米軍が撤収するかという論議は、鶏が先か卵が先か式の論難と同じものであるともいえる。しかし全人類社会が、21世紀が20世紀よりも平和的な世紀になることを希望している以上、圏外の軍事力である米軍が東アジア圏に駐屯せねばならない理由は弱化するだろう。この点においても、冷戦勢力が今後その立場と去就をみずから選択せざるを得ない重要な理由がある。
 冷戦勢力の第四の属性は平和統一自体を嫌悪するという点だといえるだろう。分断時代半世紀を通じて冷戦勢力が追求してきた統一は北進統一・滅共統一であり、それが不可能になって最後に追求した方法がドイツ式吸収統一であったといえる。したがって南北協商統一や対等統一はまったくかれらの思考の外であった。解放後北側からきた越南民たちが北に置き去った土地を再び獲得するため土地文書を大切に保管しているという話がきこえてくることからも、このことは斟酌しうる。
 しかし、その地政学的位置が重要な原因の一つであると考えられているが、韓半島においては6・25戦争によって実証されたように、北進統一のような戦争統一は不可能だったのであり、金日成主席死亡後ただちに生じると論じられまた期待されていた吸収統一も、不可能であることが実証されつつある。結局、協商統一の方法以外残っていないといえるが、冷戦勢力・反北勢力がそのまま維持されるためには、南北が統一されずに引き続き対立状態を維持するかあるいは戦争統一や、最低限、吸収統一でも成されねばならないために、両者いずれでもない平和統一を嫌悪する以外ないのである。20世紀を超えて世界史的、民族史的趨勢は平和統一・和解統一・協商統一の方に向かっているので、冷戦勢力が生き残ってゆく道は徐々に狭くなり、危機をおぼえるほどに生存のための身震いはより深化するのである。

 

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