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引用

 以下、矢野久「戦争犯罪追及・戦後補償と歴史学―戦後日独比較」360-362頁(松村・矢野編著『裁判と歴史学―七三一細菌戦部隊を法廷からみる』現代書館、2007、所収)から引用。

……本稿ではとくに、補償運動できわめて重要な位置を占めているだけではなく、従軍慰安婦を扱う女性国際戦犯法廷に関連して積極的に発言し、かつ、自虐史観という批判に対抗して論陣を張っている高橋哲哉氏の議論を取り上げることにする。氏は日本における運動の良心とでも言えるような存在であり、その彼をここで批判の対象にすることについては躊躇しなかったわけではない。しかし氏の政治的姿勢、道徳的な真摯さとは別に、氏の議論が補償運動にとって有効な武器とはなりえないと考え、あえて氏に対する批判を公にすることにした。

 高橋氏が強調するのは「応答可能性としての責任」である。それは、「他者からの呼びかけがあったときに」それに応答すること、「他者に対する責任」を意味する。
 呼びかけには元従軍慰安婦の呼びかけもあり、「英霊の声なき声を聞け」という呼びかけもある。高橋氏によれば、どの呼びかけに、どのように応えるのかは自由に選択すればいいという。しかしこれは、呼びかけがないと応答する必要がないということであり、と同時にこの自由な選択にあたってはなんら判断基準がないということをも意味している。
 ここで高橋氏は他でもなく元慰安婦たちの証言に応答する。高橋氏によれば、元慰安婦の「汚辱の記憶、恥ずべき記憶」(傍線は高橋)を保持しそれに「恥じ入り続ける」ことが「倫理的」・「政治的可能性」を開くという。なぜ元慰安婦たちの呼びかけに責任を感じ、応答するのか。高橋氏は次のように記している。
 「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けるということは、あの戦争が『侵略戦争』だったという判断から帰結するすべての責任を忘却しないことを、つねにの課題として意識し続けるということである。このすべての責任の中には、被侵略者である他国の死者への責任はもとより、侵略者である自国の死者への責任もまた含まれる。」(傍線は高橋)
 つまり、従軍慰安婦が存在したのかどうか、強制的であったのかどうかが、「英霊の声なき声を聞け」という呼びかけからは疑問視されている中で、高橋氏は「侵略戦争であったという判断」に責任の根拠をおき、「責任を忘却しない」ことを求めるのみである。
 しかしこれで従軍慰安婦のみならず、本稿で扱っている人体実験について、その存在自体が問題とされている中で、ドイツにあてはめていえば人体実験の被害生存者の記憶に恥じ入り、責任を忘却しないといくら叫んでも、なんら効果があるとは思われない。私はここで高橋氏の道義性を問題にしているのではない。人体実験という歴史的事実を明らかにし、その罪を明らかにすることが求められているときに、こうした道義性は役に立たない。歴史的事実を明らかにし、それを通して自ら主体的に過去を想起することが重要であろう。高橋氏にはそれが欠如している。
 人体実験があったかどうか。高橋氏の論理にしたがえば、人体実験があったという被害者の呼びかけがないと、応答しないということになる。仮にこの呼びかけに応答したとして、いかなる判断基準をもって「人体実験がなかった」というもう一つ別の呼びかけを否定するのだろうか。歴史的事実が問題にされているときに、哲学的省察でもって応答することで人体実験否定論を突破できるのだろうか。

 ところで高橋氏は、歴史的事実を明らかにするということをどのように位置づけているのであろうか。高橋氏はその著書『デリダ―脱構築』(講談社、一九九八年)で言語論にまで哲学的省察を加えて考察している。デリダを通して氏が主張したいことは、文字として記録された文書が主体からもまたオリジナルなコンテクストからも離脱するとういことである。主体の現前のみならず指示対象一般の現前にも当てはまるということで、たとえば「人体実験があった」という言表の意味は、高橋氏によれば、人体実験があったかどうかという事実とは無関係であるということになる。
 高橋氏は次のように記す。
 「オリジナル・コンテクストの権威も、オリジナルな意味の権威も、こうして失われる。そもそもマークは反復可能性のみによって構成されているのだから、オリジナル・コンテクストのオリジナリティ(根源性)に根拠があるわけではないし、オリジナルな意味の根源性や同一性も同じである。」

 人体実験の記録を想起して、次の高橋氏の言説を考えてみよう。
 「他者のテクストのなにを肯定し、なにを否定するのか、なにを継承し、なにを放棄するのか。他者の呼びかけへの応答としての解釈は、現前する主体の意識的決定の権威がもはや失われてしまったところで、それでもなおそうした決定=解釈の責任=応答可能性の構造のなかに私たちを位置づける。」
 人体実験の事実を究明することではなく、人体実験被害者の主体の権威がなくなった場所(非場所)で、それでもこの他者の呼びかけに応答することを求めているのである。人体実験の記録も根拠がないのであるから、高橋氏の言表は何の役にも立ちそうにない。
 歴史家が残された記録を集め、そこから歴史的事実を究明すること自体に高橋氏は哲学的に懐疑的なのである。哲学的根拠はないといっているのである。

 八 結論的考察
 現代の日本における状況は非常に厳しいものがある。一つは、戦時中の犯罪そのものの存在を否定する論調がますます勢いを増しているからであり、もう一つは、戦争犯罪の事実を前提として被害者の側で闘う陣営においてさえ、戦争犯罪の事実を歴史学的に究明すること自体に思想的・哲学的に疑問視する潮流が、思想界のみならずメディアの一角を形成しているからである。その意味で現代の日本の状況は、ミッチャーリヒがおかれた1950年代のドイツ医学界の状況よりもはるかに厳しいといえるであろう。
 こうした現状を打破するためにはどうすればいいのだろうか。……

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引用

 これに関連して私はとくに知識人特有の弱点に言及しないわけに行きません。それは何かといえば、知識人の場合はなまじ理論をもつているだけに、しばしば自己の意図に副わない「現実」の進展に対しても、いつの間にかこれを合理化し正当化する理窟をこしらえあげて良心を満足させてしまうということです。既成事実への屈伏が屈伏として(原文傍点箇所、以下同様)意識されている間はまだいいのです。その限りで自分の立場と既成事実との間の緊張関係は存続しています。ところが本来気の弱い知識人はやがてこの緊張に堪えきれずに、そのギャップを、自分の側からの歩み寄りによつて埋めて行こうとします。そこにお手のものの思想や学問が動員されてくるのです。しかも人間の果しない自己欺瞞の力によつて、この実質的な屈伏はもはや決して屈伏として受取られず、自分の本来の立場の「発展」と考えられることで、スムーズに昨日の自己と接続されるわけです。嘗ての自由主義的ないし進歩的知識人の少なからずはこうして日華事変を、新体制運動を、翼賛会を、大東亜共栄圏を、太平洋戦争を合理化して行きました。一たびは悲劇といえましよう。しかし再度知識人がこの過ちを冒したらそれはもはや茶番でしかありません。

 私達の眼前にある再軍備問題においても、善意からにせよ悪意からにせよ、右のような先手を打つ式の危険な考え方が早くも現われています。例えば、問題はすでに現在の予備隊が憲法第九条の「戦力」に該当するかどうかというような「スコラ的」論議の段階ではなく、来るべき再軍備においていかにして旧帝国軍隊の再現を防止するか、或いはいかにして文官優越制(シヴイリアン・シユープリマシー、原文ルビ)の原則を確立するかにある―などという所論がすでにあちこちに見受けられますが、これなどその主張者の意図如何にかかわりなく実質的には、上から造られようとしている方向、しかしまだ必ずしも支配的とならない動向に対して大幅に陣地を明け渡す結果しか齎しません。文官優越性の問題自体はここに論ずる限りではありませんが、ただ一言したいことは、それは統帥権の独立や軍部大臣武官制に悩まされた日本でこそ目新しく映りますが、実はすでに第一次大戦における帝政ドイツ崩壊後は世界の文明国家でどこでも確立している原則だということです。むろんそれが確立したのは自由主義の要請にもよりますが、同時に現代戦争において最も有効な戦争指導体制として歴史的に実証されて来たからであつて、文官優越制になつたからとて戦争の危険が著しく減少すると思つたら、それは現代戦争の動因に対する完全な認識不足といつても過言ではないでしよう。むしろ、現代の全体戦争的性格は形式的制度の上で文官武官どちらが優越しているかにかかわりなく、政治家と軍人(或いは政略と戦略)の融合一体化の傾向を示しています。例えば、マッカーサー元帥の罷免はアメリカにおける文官優越制の最も顕著な事例として、日本などでは感嘆と驚異の眼で見られましたが、それはアメリカの政治・経済機構全般の軍事体制化を毫も妨げるものではありません。むしろあの事件はマッカーサーに対するマーシャル・ブラッドレー派の勝利であつて、それによつて国防首脳部の政治的発言権はかえつて実質的に強化されたという有力な見方もある位です。ともかく現在における再軍備の問題の所在を文官優越制にあるかのようにいう事は客観的には、真の争点から国民の眼をそらせる役割を営むものというほかありません。私達は問題意識においてあくまで冷静かつ執拗であるべきで、かりにも事態の急テンポに眩惑されて思想的な「先物買い」に陥つてはならないと思います。

 それからもう一つ、学者や政治家の間には、再軍備の是非は結局国民自身が決めるべき問題であるという―それ自体はまことに尤もな―議論を煙幕として自分の態度表明を韜晦しようという兆しがはやくも見えております。もつともそこにもまたいろいろニュアンスがあつて、実際は自分の内心の立場はきまつているのだが、現在それを表明するのは具合が悪いので、もう少し「世論」がそちらの方に動いて来るのを待とう―或いはもつと積極的には「世論」をその方へ操作誘導して行つてから後にしよう、という戦術派もあれば、また形勢を観望して大勢のきまる方に就こうという文字通りの日和見派もあるでしよう。それはともかくとして、再軍備問題は次の総選挙において最大のイッシューの一つになるでしようから、その結果によつて、またいずれ来るべき憲法第九条の改正をめぐる国民投票において最後の審判が下されるべき問題であることは当然の事理です。しかしながら、いうまでもなく国民がこの問題に対して公平な裁断を下しうるためには最少限度次のような条件が充たされていなければなりません。第一は通信・報道のソースが片よらないこと、第二に異つた意見が国民の前に―一部インテリの前にだけでなく―公平に紹介されること、第三に以上の条件の成立を阻みもしくは阻むおそれのある法令の存在しないこと、以上です。ですから再軍備問題を国民の判断に委ねよと主張する人が、いやしくも真摯な動機からそれをいうのなら、彼は必ずや同時に右のような条件を国内に最大限に成り立たせる事を声を大にして要求すべき道徳的義務を感ずる筈です。もし彼がそうした条件の有無や程度については看過し、もしくは無関心のまま、手放しに国民の判断を云々するなら―もし現在のように新聞・ラジオのニュース・ソースが甚だしく一方的であり(必ずしもうそをついているとはいいませんが)、また異なる意見が決して紙面や解説で公平な取り扱いを受けず、ソ連や中共の悪口はいい放題であるのに対して、アメリカの批判や軍事基地の問題は政令三二五号等々の取締法規のためにおつかなびつくりでしか述べられないという状況―一言にしていえば言論のフェア・プレーによる争いを阻んでいる諸条件―に対して何ら闘うことなしに、ただ世論や国民の判断をかつぎ出して来るならば、私達はそういう人達の議論に誠実さを認めることは出来ません。それらの人は何千万の国民の生死に関係する問題に対しても一段高い所に立つて傍観者的姿勢をくずさず、むしろそうしたとりすましたジェスチュアのうちに叡智を誇ろうとする偽賢人か、さもなければ、現在のマス・コミュニケーションにおいて上のようなフェア・プレーの地盤が欠如していることを百も承知で、逆にそれを利用して目的を達成しようという底意を持つた政治屋か、恐らくそのどちらかでしよう。

      丸山眞男「「現実」主義の陥穽」181-4頁(同『現代政治の思想と行動』(上巻、1956)未来社)。

金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」について

1.はじめに

以下金明秀氏の「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」を検討する。

この論考についてはすでにkscykscy氏が的確な批判を加えておられ、本質的な問題はそこに出ていると思われるので、ここでは、主に表現行為の側面に注意して、金明秀氏の論考(以下金明秀論考と略称する)を検討していく。

結論から言うと、金明秀論考に戦略性などあって無いようなものに等しいのだが、どうしてそう言えるか順に説明していく。

なおkscykscy氏と金明秀氏との間のその後の議論の展開については抗議を参照。



2.そもそも戦略性を維持できるかあやしい

金明秀氏はまず「「普通の人々」は、危険の存在を暴き立てるような行動(例えば原子力発電反対デモに参加するとか)をとることで一時的に「避雷針」として敵意の対象となるだけだが、行動とは無関係に属性によって恒常的に「避雷針」の役割を押し付けられる人々がいる」とし、そのような人々を「他者」とする。

そして「スケープゴートになりやすい「他者」の例として「ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者など」を挙げる」議論を紹介した上で「日本では、「朝鮮人」が筆頭に加わることになろう」と述べている。

さらに「「他者」をリスクそのものとみなす非合理的な観念は、残念なことに、こうした一部の狂信的な政治思潮の保持者だけに流布しているものではない。朝鮮学校「無償化」除外問題をめぐって改めて明らかになったことは、日本政府こそが、在日朝鮮人を再生産するための教育機関を「リスク」としかみなしていないという事実であった」と述べている。

そして金明秀氏は「リスク・コミュニケーション」を次のように導入する。

「「他者」は、自分自身を「リスク」とする屈辱的な役割をひとまず引き受けた上で、そのリスクは不安に思う必要がないほど低く、そもそもリスクという役割を付与することが間違っているのだと多数派を説得しなければならない。これが「他者」にとってのリスク・コミュニケーションである。」

こう定義した上で金明秀氏は、「リスク・コミュニケーションを実践する場合のヒント」として「朝鮮学校の存在がどのように日本の役に立っているか」を論じていくのである。

ここからが本題である。引用文中の非合理的な言表を「ひとまず引き受け」という点に注目しよう。「ひとまず引き受け」ようということは<ひとまず肯定しよう>ということに等しい。だが当該言表を肯定するということは、行為遂行的には、被害をうける者自身がわざわざ、当該言表行為を遂行する主体に対して、(その行為遂行主体が)当該言表行為遂行の権利を所有していることを肯定(=承認)することを意味する。

だから「「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略」は、戦略としてのいわばメタ論理性が押しつぶされて、実態としては、次のようなコミュニケーションに帰結すると考えられる。

<あなたたちに一方的にいじめられるという役割の他にも役に立っている面があるんです。だからあまりいじめ過ぎないでください。他の役割がこなせなくなりますから。>

非合理な言表を行う権利が(被害をうける者自身からわざわざ)相手に付与されていて、かつ(被害をうける者が)「ひとまず引き受け」た役割の解除が客観的に保障されていない以上、このようなコミュニケーションになるのは目に見えている。「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください。」「ほんとだ。役に立ってるんだね。もういじめるのやめるね❤」となるわけないだろう。

要するに金明秀氏は、実際のコミュニケーションにおいては、相手の言表内容に対する肯定と相手の言表行為に対する肯定の区別を都合よく維持しうるような、メタ論理(=戦略)的肯定の立場など保障されていないということ自体がわかっていない(あるいはこの問題のリスクを著しく過小評価している)。大学の講義では壇上(メタ論理)から学生の理性(論理)に訴えて「多数派を説得」できるかもしれない。だが社会はそういう風にできていない。<それは間違っている>と言わないで「ひとまず引き受け」てどうするのか。「ひとまず引き受け」たら最後二度とおりられないのがいじめの現実だと認識する方が、はるかに合理的なリスク認識というべきである。



3.そもそも戦略を考えているかあやしい

とはいえ表現行為に注目した場合のこの論考の核心は上の論点にあるのではなく次の点にあると思われる。すなわち、一方で、日本にとって「他者」在日朝鮮人そのものがリスクであるという信念が「馬鹿げたもの」であり「ナンセンス」であると正しく認識しているにもかかわらず、他方で、朝鮮人にとってこそ侵略と植民地支配を行う日本が大きなリスクであったし、それを反省しない日本は今なお危険であるという歴史的事実に依拠した、客観的かつ主体的危険認識が(論考中に)まったく現れてこないことそれ自体である。

<ⅩにとってYは危険である>という認識が間違っていたとしても、それにひきずられて<YにとってⅩは危険である>という認識も却下されるということにはならないのだが、金明秀氏の表現行為の<面白い>ところは、そういう逆転した関係認識が独自に成立する可能性を行為遂行的に忘却させる効果をもっている点にある(以前類似の問題を指摘した)。歴史的な権力関係や支配服従関係の<自然><永遠>視の下で、特定の関係認識が成立している場合は、それを逆転させた関係認識が成立する可能性を、あらかじめフェイドアウトさせてしまう表現行為が何の「役に立つ」かということは自明である。

要するにこの論考は、在日朝鮮人に対して危険(リスク)を主体的にとらえ返すいとまを与えないで、論理的にいわば受動的防衛姿勢をとらされたままの在日朝鮮人に対して直接「リスク・コミュニケーション」を差し出すという形態をとって記述されている。論考の説得性の強度もこの(ソフトな口調とは裏腹の)強迫的立論構成によって同時に調達されている。換言すればこの論考は、そのまま出せば単に無謀な「リスク・コミュニケーション」を、朝鮮人の主体性を首尾よく忘れさせる立論構成という<フィルター>を通すことで、届く人には届いてしまうように記述されているのである。

だから金明秀論考の本質は、朝鮮人の運動戦略を説いているのに、朝鮮人の立場から危険をとらえかえす視点がない、という点にある。ずっと暴力を被って大変ね、でも時代はリスク社会なんです、とさらっとぶって、「民族運動」に関心のある朝鮮人が「運動戦略」を「ああ、そうですね」と変えるだろうと、本気で金明秀氏が思っていたのだとすれば、「民族運動」も随分となめられたものである。危険を朝鮮人の立場からとらえかえすと金明秀論考はどうみえるかという点に最後に少しふれておこう。



4.疑似的主体性と疑似対立の供給

丸山真男によれば「B・ラッセルはかつて、中国文化にたいするヨーロッパ文化の優越は、ダンテ、シェイクスピア、ゲーテが孔子、老子にたいして勝を占めたという事実に基づくのではなく、むしろ、平均的にいって、一人のヨーロッパ人が、一人の中国人を殺すのは、その逆の場合よりも容易だという、はるかにブルータルな事実に基づくのだ、と辛らつな言を吐いた」という(『日本の思想』27-8頁)。

これを誰が言ったかはどうでもいいのだが、「ブルータルな事実」は身も蓋もない真である。つまり次のように言うべきである。

在日朝鮮人の生活において、現在なお、朝鮮文化が日本文化に圧倒されており、朝鮮学校の運営すらますますままならなくなっているという現実は、日本文化が朝鮮文化に勝を占めたという事実に基づくのではない。そうではなく、むしろ、平均的にいって、一人の日本人が、一人の朝鮮人を殺すのは、その逆の場合よりも容易であったという、はるかにブルータルな事実に基づいており、そのようなブルータルな事実の集積の結果形成された歴史的構造が解体されないまま、戦後日本がその遺制の上に構築されている歴史的現実に基づくのだ、と。

この「ブルータルな事実」の蓄積に基づく客観的リスク認識からすれば、金明秀氏のいう「在日コリアンのリスク・コミュニケーション」はまさに「危険に曝されても、合理的なリスク意識を形成するとはかぎらず、むしろ不安にかられて非合理的な推論に逃げようと」した結果の疑似的主体性(の定立)だと考えられる。したがってまた、氏が論考中で暗に示唆している「祖国志向の強い在日コリアン」対そうでない人々とでも言うべき対立構図は、歴史の中で実際に衝突している、日本社会の執拗な、幻想的かつ非合理的リスク認識と、朝鮮人の主体的な、客観的かつ合理的リスク認識の対立を隠蔽する、疑似対立であると考えられる。



5.おわりに

以上から金明秀論考の「戦略」がきわめて危ういものであることはだいたい明らかになったと考える。金明秀論考の客観的機能は、在日朝鮮人の自律的判断力の麻痺であり、在日朝鮮人の日本社会への従属を一層深化させる下地の形成であると考えられる。

抗議

 岩波書店労働組合による金光翔氏「除名」処分および岩波書店による金光翔氏解雇通告に抗議します。

【参照】
片山貴夫のブログ、急報 岩波書店が金光翔さんに「解雇せざるをえない」と通告
media debugger、岩波書店へのメール3
横板に雨垂れ、岩波書店へのメール文
全体通信、金光翔氏の解雇を許してはならない  等々。


 渡辺洋三『法とは何か 新版』岩波新書、1998、197頁。

…労働者は、もともとは市民であって、市民的自由を保障されている。労働組合も憲法上は、結社の一つである。使用者に対抗し、労働者に有利になるようにつくられた結社のはずなのに、それが組合員個人の思想・信条の自由を侵すことになれば、本末転倒である。
 日本の労働組合にも、構成員の市民的自由を尊重し、その自由を基礎に団結力も強い民主主義的組合はもちろんある。しかし、それはまだ多数派ではない。組合らしくない組合の方が多い。前にものべたが、企業一家理念から抜けきれず、労使協調を名実ともに看板としているからである。個の未確立の上につくられた集団は、もろいものである。日本の労働組合が、欧米の組合よりも力が弱いゆえんである。昭和初期に労働組合が国策にしたがい、なだれを打って翼賛体制に統合された昔の歴史を忘れてはなるまい。


 渡辺洋三著『法を学ぶ』岩波新書、1986、226-7頁。

 昔とちがって今の日本人は、私益の追求に熱心である。しかし、その追求のパタンは、他の私的利益との対立の中でみずから勝ちとってゆくパタンでなく、各種集団の中で集団に依存しながら、集団全体の利益の一部の配分をうけるというパタンである。この点が利益社会と権利社会の根本的差異である。私は、この特質を、「ぐるみ利益共同体」と名づけたい。それは、家ぐるみ、村ぐるみ、農協ぐるみ、企業ぐるみなどの集団的利益のことである。この種の利益共同体が政治的には、政治献金と利益誘導・供与型の政治関係をうみ出し、結局は、公的資金を管理できる立場にある与党の長期にわたる支配を維持させている重要な要因であることも広く知られている。それゆえにこそ、戦後の近代化は、広範な各種利益共同体を噴出させたとはいえ、それが権利社会の成長や国民の権利意識の向上につながらなかったのである。
 このままでゆくならば、国家ぐるみの利益共同体=国家的利益(ナショナル・インタレスト)が、戦前と異なる形にせよ、やがて形成されてゆくのではなかろうか。すでに、この種の新しい装いをとったナショナリズムが「愛国心教育」として進められつつある。「経済的に豊かで、平和で、争いも少なくて、こんな良い国はありませんよ。この良い国を守ることが、あなた方の義務ですよ」と。


 イェーリング『権利のための闘争』岩波文庫、1894、63頁。

 私はこうした議論を、権利感覚というものが権利侵害の重大さをもっぱら身分的利害によって測る結果、権利感覚の敏感さの程度は身分・職業ごとに異なっている、という単純な事実を確認するために展開したのではない。この事実は、私にとって、はるかに大きな意味のある真理に正しい光を当てるため役立つべきものにすぎない。その真理とは、どんな権利者も自分の権利を守ることによって自分の倫理的生存条件を守るのだ、という命題である。けだし、右に見たように、農民・将校・商人のいずれにおいても権利感覚の感度が最も高いのはそれぞれの身分特有の生存条件にかかわる点であるが、そのことからして、権利感覚の示す反応は通常の激情とは違って気質とか性格とかいった個人的要素だけにもとづくものではなく、一つの社会的要素、すなわちそれぞれの身分独自の生活目的にとって当該の法制度が欠かせないものだという感覚にもとづくものでもあることがわかる。権利侵害があった場合に権利感覚がどれだけ力強く発揮されるかということが、個人や身分や国民が自分と自己独自の生活目的のための権利の意義――権利一般および具体的な法制度の意義――をどれだけよく理解しているかについての、最も確かな指標なのである。この命題は、私には普遍的な真理だと思われる。


メモ

以下プレシアンの記事(3月6日付:ファン・ジュンホ記者)。

坡州の住民たち「対北ビラ撒布物理的に阻止する」
脱北者団体「8日~10日ビラ撒布強行」


北韓が対北ビラ撒布がおこなわれる臨津閣を「照準(をあわせ)撃破射撃」すると警告した中、京畿道坡州市汶山(ムンサン)邑の住民たちが、ビラ撒布自体の自制をもとめて動いた。

とくに臨津閣の商人など一部の住民は、ビラ撒布行事がこのまま臨津閣で行われ続ける場合は物理的に阻止するという立場を明らかにし、ビラ撒布が国内的に多様な葛藤をうみだしている。

6日の<連合ニュース>報道によれば、汶山邑里長団協議会は、最近汶山邑を訪問しビラ撒布がこれ以上臨津閣で行なわれないよう対策をたててほしいと市に公式要請した。

里長団協議会 パク・チャンホ(56)会長は、<連合>に対して「北韓が臨津閣を明示し、昨年11月の延坪島砲撃も発生した状況なので、すべての住民が不安になっており、観光客が減少するなど地域経済にも莫大な被害を与えており、住民の立場を市に伝えた」とし、「一部の臨津閣の商人と住民は物理力まで動員して対北ビラ撒布を止めようとしている状態」と述べた。

汶山邑馬井里のパク・ヘヨン(51)里長も「ビラ撒布をするなということではなく、臨津閣ではない他の場所でしろということ」と述べ、「妻が臨津閣の近くで飲食店を経営しているが客が半分になって被害が普通でない」と述べた。

しかし脱北者団体は、8日から10日に臨津閣で再びビラ20万枚を撒布すると明らかにし衝突が憂慮される。自由北韓運動連合パク・サンハク代表は「臨津閣は公共の場所なので住民が反対するからといって他の場所に移ってビラ撒布をする考えはない」と述べたと通信はつたえている。

北韓の警告発表後、臨津閣周辺の被害を憂慮し公開的な行事をやめ「静かに」撒布する方針に変えた脱北者団体もある事がわかっている。このように現地住民と一部の団体の憂慮が示される中公開的なビラ撒布の行事は萎縮するとみられる。軍当局の心理戦であるビラ撒布も同様だ。

一方、米国の韓半島専門家である Selig Harrison 国際政策センター(CIP)アジアプログラム局長は、4日<LAタイムズ>の寄稿文【註1】で「北韓とリビアはちがう」と述べ、最近のリビアの状況などを記した韓国軍当局の対北ビラ撒布行為を批判した。

Harrison 局長は、北韓を心理的に結束させているものは民族主義的感情であるとし、それは朝鮮戦争を通じて外部勢力に対する精神的衝撃【註2】を被りながらより強固になったと説明した。また彼はアラブ圏の支配層には民族的同質性と民族主義精神はないが、北韓はそれを基礎にこの間の飢饉と経済的困難の中で権力を維持してきたと主張した。

つづけてHarrison 局長は、李明博政府はアラブ世界と類似点のない北韓において対北ビラ撒布を通じて反乱をけしかけないで、前任政府たちが主唱したゆるい形態の南北連合をひきつづき推進し南北が共存する道を選択すべきだと強調した。

註1 たぶんこれ。すこし引用します。

<South Korea's air force has been dropping balloons with leaflets into North Korea describing the struggle to oust Moammar Kadafi in Libya and calling on the North Koreans to rise up against their oppressors./This is a ridiculous exercise for the obvious reason that Libya is split by countless tribal and regional divisions. By contrast, North Korea is ethnically homogeneous and strongly united by a nationalist heritage deeply rooted in the struggles against the Japanese colonial occupation and three years of U.S. saturation bombing during the Korean War.>

<The psychological cement that holds North Korea together is nationalism, and the key to understanding the strength of nationalist feeling in the North lies in a recognition of the traumatic impact of the Korean War. The North's founding leader, Kim Il Sung, skillfully utilized his totalitarian control to enshrine himself as the defender of Korean sovereignty and honor in the eyes of his people, but he was able to do so primarily because memories of the war made his nationalist message credible./The American visitor is reminded constantly that the scars left by the war are unusually deep in the North. The South suffered brutal but relatively brief anguish during the latter part of 1950, with Pyongyang using little close air support in its operations there. The North, by contrast, endured three years of heavy U.S. bombing in addition to the Yalu offensive on the ground.>

註2 Harrison (の L.A.times) 記事中の the traumatic impact of the Korean War に相当すると思われる。ただ、単に「精神的衝撃(정신적충격)」というとthe traumatic impact の「外傷」性を伝達しえない嫌いがあると思う。
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